
先崎彰容が語る「真の自由」と幸せのビジョン:新しい富国強兵とは?
現代社会が問う「自由」と「公」の真価
現代社会はテクノロジーの進展や価値観の多様化によって「自由」や「個人主義」を称揚する。
しかし、その裏側では不確実性や分断が蔓延し、多くの人々が未来への不安を抱えている。
本稿では、現代の思想潮流と社会構造の変遷を紐解き、個人と社会双方の豊かさを両立させる「公」の役割、そして激動する世界で生きがいを見出す道筋を探る。
Q. 現代アメリカではどのような対立する思想が存在するのか?
現代アメリカには対立する二つの思想がある。
一つはイーロン・マスクに代表される「テクノ・リバタリアニズム」だ。彼らは幼少期の挫折から現実社会に幻滅し、究極の自由を追求する。
地球すら束縛と捉え、火星移住を構想するほどである。

この自由への渇望は、世界を自分の意のままに支配したいという屈折した支配欲の現れとも言える。スマートフォンを通じた情報支配はその一例だ。
対極にあるのがJ.D.ヴァンスが象徴する「保守革命」である。彼らはシリコンバレーの台頭で失われた古き良きコミュニティの復活を目指す。
鉄鋼業や教会中心の穏やかな生活が破壊されたとの思いから、ITで栄えるアメリカを「悪いアメリカ」と見なす。
テクノリバタリアンは同じ国民でも「敵」と捉え、対立するアメリカ像がトランプを介して政策論争となっている。
Q. 日本で保守主義が台頭しているのは、なぜ個人主義の極北だと言えるのか?
日本では「保守」を名乗る声が多数聞こえるが、これは必ずしも真の「公」の精神回復ではないかもしれない。
特に就職氷河期世代の40〜50代は、仕事での自己実現が叶わなかった。彼らは自分の存在意義を見つけられる場を求めるのだ。
国を良くするという政治活動は、自分の努力を肯定できる機会となり、熱狂の受け皿となる。「日本ファースト」のような分かりやすい保守的言動に惹かれるのもこのためだ。
この現象は、表向きは公的な言動を伴うが、根本には「自分の存在意義を見つけたい」という極めて個人的な動機が存在する。
「個人主義の極北」とも表現できる。
真の公への奉仕とは異なり、内面的な欲求を満たす手段として政治活動がある皮肉な構造だ。日本はリベラル勢力の退潮で対立軸が失われ、このような自己実現型保守が台頭した背景がある。

Q. なぜ人々は社会の中で自分の「居場所」を求めるのか?
人々が社会の中で「居場所」を求めるのは、自分の存在意義を確認したい普遍的な欲求があるからだ。
軍隊はその究極の象徴である。軍隊は「究極の公」であり、「国のために役立っている」と最も分かりやすい形で存在意義を示す。J.D.ヴァンス、山上被告、戦前のテロリストなど、挫折感を経験した多くの人物が軍隊に入隊している共通点がある。彼らが公の場で自己実現を模索したのは、そこに居場所と役割を見出したかったためであろう。

社会から追い詰められた人間は、三つの道筋をたどりやすい。
第一は、自らを責め内に向かうタイプ。第二は、カリスマ的人物や思想に自己を同一化し、連帯感を得るタイプだ。第三は、社会への不満を暴力によって表現するタイプである。
J.D.ヴァンスは軍隊を経て政治家として成功した。だがそれが叶わない場合、山上被告のように悲劇的な末路を辿ることもある。社会で役割を与えられ、「生きる摩擦熱」を得られることが、安定した自己肯定感に繋がる。
Q. 「自由」という言葉が持つ、光と影の側面とはどのようなものか?
「自由」という言葉は、その時々の時代状況で大きく意味合いを変える両義的な存在だ。
可能性に満ちた前向きな意味で捉えられることもあれば、不確実性や不安定と結びつくこともある。例えば、バブル経済期には「フリーター」が肯定的に語られ、自由な生き方を象徴した。しかし、経済停滞期には同じ働き方も「非正規雇用」と呼ばれ、社会問題としてネガティブに語られた。近年は再び「フリーランス」として肯定的に見直される。

これは言葉だけでなく、生き方そのものも同様だ。
職場や関係性に縛られず、様々な可能性に開かれている状態は、自由である。だが同時に、明確な役割や社会からの保証がない「不安定」な状態でもある。
リーマンショックや新型コロナウイルスのような不測の事態が発生すると、フリーランスの脆弱性が露呈した。現代社会が称揚する「自由」や「流動性」は、明るい側面だけでなく、同時に大きな不確実性を内包する。その影の部分は社会に深く根差した問題となっている。
Q. 「流動性」がもたらした日本社会の光と影は何か?
日本の平成30年間は、正規雇用の「固定性」を守るため、そのしわ寄せとして「流動性」(不安定性)を一部の非正規雇用者層に押し付けてきた。
この結果、日本を支えた分厚い中間層が痩せ細った。富裕層と多数の不安定な層からなる「三角形」の社会構造へと変貌したのだ。
アメリカの「流動性」は大谷翔平のようなスターを生む。その裏では治安悪化や極端な格差という「不確実性」が同居する。
かつて美徳とされた「阿久悠の父」のような、一つの仕事に真面目に打ち込み誇りを持って生きる「安定型」は過去のものとなりつつある。
現代では、真面目に働いてもリストラされたり、副業や配置転換を求められたりする。社員は「タコ足」のように複数の専門性を身につけ、柔軟な対応を求められる。
この変化は、特に長く特定の専門性を磨いてきた世代にアイデンティティの分裂をもたらす。社会全体としては雇用の維持を選んだ代償として賃金が停滞し、今、新たな社会モデルを模索する転換点にある。
Q. 令和の日本はどのような「社会のビジョン」を描くべきなのか?
令和の日本が描くべきは、単なる「富国強兵」ではない。「新しい富国強兵論」とは、国として目指すべき「富」のあり方や「強兵」(安全保障の理念)を根本から議論し直すことである。

経済が回復し人々が豊かになったとしても、その先にどのような社会像を描くかが重要だ。成功者が富を独占し不平不満が蔓延する社会か。それとも誰もが「生きていてよかった」と思えるセーフティネットと居場所がある社会か。政治家がビジョンを示す必要がある。
金銭的セーフティネット構築に加え、たとえ人工的であっても、個人が「居場所」を見つけられるコミュニティの創造が不可欠だ。
人間はコロナ禍で明らかになったように、他者との関係性を求める生き物である。断絶されると心身に深刻なダメージを負う。
成熟した社会においては、多様な人々一人ひとりをケアする視点を持った丁寧な社会設計が求められる。経済成長だけでなく、国民一人ひとりの幸福を実現する「令和日本のデザイン」を具体的に提示することが、これからの政治に求められている。
Q. 現代社会で「気概」を持つことは、なぜ難しいのか?
個人主義が蔓延する現代社会で「気概」を持つことは極めて難しい課題である。

「生き方から死に方まで全てを自分で決める」という究極の個人主義は、一見自由に見えるが、実際には途方もない重圧と責任を個人に押し付ける。
自分で生の充実感や存在意義を見つけ出しなさい、というメッセージは多くの人々を途方に暮れさせる。「さもしい幸せモデル」が主流になる中で、国や社会全体の幸福に繋がる「英雄豪傑型」の気概は生まれにくい。
しかし、人間は完全に孤立しては生きられない。共同体としてのつながりや、何かに熱中する集団の存在は、個人の「気概」を引き出す上で大きな力となる。
例えば、甲子園球児やサッカーワールドカップ日本代表が発する「生の充実感」や「熱さ」は、多くの人々に感動と共感を呼ぶ。彼らが目標に向かって純粋に努力する姿は、自分では見つけられない「気概」のヒントを提供する。個人がそれぞれ気概を持つのが困難な時代だからこそ、チームや共同体として共通の目標に向かい、共に奮闘する経験が、新たな「気概」を育む重要な鍵となるであろう。
