
日本人が学ぶべきは、哲学、歴史、経済
変わる世界を生き抜く 日本の大人へ——シンガポール国立大学 田村耕太郎が語る「学び」の本質
急速に変化する世界において、私たちは何を学び、どのように未来を切り開くべきか。シンガポール国立大学の田村耕太郎教授は、日本の大人が直面するこの問いに対し、本質的な示唆を与えている。AIの進化、歴史の教訓、アジア経済の現実、そして子どもたちの教育、これら全てを通じて「学び」の新たな意味を考察した。激動の時代を乗り越えるための具体的な思考法と実践的アプローチについて解説する。

Q. AI時代に「哲学」を学ぶ必要性はどこにあるか?
AIが高度な知識処理能力を持つ現代において、人間には「問いを立てる力」が不可欠となる。AIは答えを導き出すことに長けているが、どのような方向に進むべきか、何を目的とするのかを決定するのは依然として人間の役割だ。哲学は「なぜ、なぜ、なぜ」を徹底的に繰り返す思考訓練であり、常識や既存の枠にとらわれず、物事の根源や本質を見抜くためのコンパスの機能を果たす。この思考法を身につけることが、AIを真に活用し、自らの道を切り拓く上で重要となる。

Q. 常識やタブーに囚われず、物事の本質を見抜く思考法とは何か?
哲学の本質は、社会や文化によって形成された「タブー」とされる事柄にも果敢に切り込み、その裏に潜む本質を問う姿勢にある。例えば、「戦争は悪」という一般的な認識を一旦保留し、その負の側面だけでなく、インターネットやGPSなど、技術革新を加速させたという歴史的な側面を多角的に考察する。こうしたタブーを排した本質への問いかけが、複合的な現実を理解し、見誤らない力を養う。ビジネスにおいても、ドン・キホーテの「不必要なものを不必要な時に買わせる」という言葉や、スターバックスが「コーヒーではなく空間を売る」という事例のように、「本当に提供している価値は何か」を突き詰める問いが成功への道筋となる。
もし真剣な議論をする場が不足していると感じるなら、AIを相手にする方法も有効だ。AIは倫理やタブーに囚われず、ある意味で感情を伴わない壁打ち相手として機能する。ただし、AIの応答には嘘や間違いも含まれる可能性があるため、それを承知の上で対話を進める洞察力も必要となる。

Q. 歴史を学ぶことは、現代の激動する世界や未来の予測にどう役立つか?
歴史は単なる過去の記録ではなく、未来を読み解くための「メタファー(類似例)」の宝庫だ。例えば、危機や激動の時代には、常にメインストリームから外れた「ダークホース」が台頭し、変化を牽引するという法則が繰り返し現れている。大航海時代のスペインやポルトガルが辺境からの挑戦で世界史を動かしたように、外部環境の変化とそれに抗する周辺勢力の行動が、世界を変える契機となるのだ。この視点は、現代の日本の政治状況を理解し、予測する上でも応用できる。たとえば、女性リーダーが長期政権を築く傾向(メルケル、サッチャー、インディラ・ガンジーなど)や、イタリアのメローニ首相のように、危機下で登場し短命と予想されながらも政権を安定させた例は、日本の政治における特定のリーダーの今後を占うメタファーとなり得る。
さらに、「ゴールデンサイクル」と呼ばれる国政選挙のない期間のような時間軸の概念を理解することも、政権運営の安定性や政策実行の可能性を正確に予測するために不可欠である。歴史的視点と世界的な事例を組み合わせることで、シナリオプランニングの精度は格段に高まるだろう。

Q. なぜ新興国は先進国になれない「中進国の罠」に陥ることが多いのか?
「新興国はいずれ先進国になる」という自動的な成長への期待は、多くの場合幻想に過ぎない。開発経済学の視点から見ると、多くの新興国は、財閥による経済支配や強権的なリーダーシップという政治経済構造によって「中進国の罠」に陥っている。これらの国では、短期的な利益が見込める不動産、資源、カジノなどに資本が集中し、手間のかかる製造業の育成が阻害されがちだ。結果として、製造業が発展せず、大量雇用やミドルクラス(中産階級)が生まれにくく、産業全体の裾野が広がらない状況が続く。日本が製造業を基盤に先進国へと成長できたのは、AIと自動化が進む前の「最後のタイミング」を掴むという幸運があったためだ。今から同じ経路を辿り、製造業によって経済発展を目指すことは、多くの新興国にとって極めて困難である。例えばインドでは、若年人口の多さは魅力だが、年間2500万人もの新たな労働人口に雇用を創出できなければ、大規模な社会不安やデモに繋がりかねないリスクを抱えている。
Q. 中国経済の現状と「中進国の罠」から抜け出す難しさとは何か?
中国も製造業を起点に大きく成長した国であるが、「中進国の罠」に直面している可能性が高い。その大きな要因は、儒教的な「社会の調和優先」の国家観と、「帝王は一人でいい」という強力な中央集権体制にある。中国政府は社会の安定を最優先するため、ジャック・マー氏のように突出した影響力を持つ民間起業家を脅威とみなし、抑圧する傾向がある。このような環境下では、起業家精神が萎縮し、新しいアイデアやイノベーションが生まれにくくなる。その結果、国全体のイノベーションが停滞し、15億人という膨大な人口規模で「中進国の罠」を抜け出すのは極めて困難となる。実際に、中国国内の体制に疑問を感じ、日本やシンガポールなどへ脱出する中国人が増えていると言われる。
各国のこうした政治・経済構造を深く理解することは、日本企業がどこに投資すべきか、どの国を過剰に警戒すべきでないか、という戦略的な判断に不可欠である。自国の国内問題で手一杯な国は、対外的に大きな動きを見せる余地がないからだ。このマクロな知識は、個人のキャリア選択においても有用であり、例えば、日本の地方に眠る優れた技術を持つ製造業に、国際的な経営力を注入するような新たなキャリアパスを探る上で、大きな視点をもたらすだろう。
Q. AI時代の子どもたち、そして大人が備えるべき学びの姿勢とは何か?
AIには「身体性」がないため、人間のように五感を通して世界を感じ、自発的な「好奇心」を持つことはできない。したがって、AI時代において人間が果たすべき最も重要な役割は、まさにこの好奇心を解き放ち、AIに進むべき方向を示す「コンパス」となることだ。計算の速さや知識の記憶はAIが得意とする分野であり、人間はその領域をAIに委ね、創造的で探求的な活動に集中すべきである。

子どもたちの教育において最も大切なのは、彼らが生まれつき持っている好奇心の邪魔をしないことである。親の役割は、例えば子どもがアリの行列を夢中で観察しているような時でも、「早くしなさい」と急かすのではなく、忍耐強くその探求心に寄り添うことだ。基礎的な学力はもちろん重要だが、それらは好奇心をサポートするためのツールと捉えるべきだろう。私たち大人は、子どもたちの姿から学び、失いかけた「なぜ?」という問いを立てる力を再発動させるべきである。これにより、大人は哲学的スキルを身につけ、本質を見抜く力を仕事や新たな事業機会に活かすことができる。
大人も好奇心を保つために、意識的に「ルーティンを壊す」実践が有効だ。いつもの通勤経路を変えたり、普段入らないお店に立ち寄ったり、オンラインではなくリアルな書店で偶然の一冊に出会ったりと、日常に小さな変化を取り入れることで、脳に新たな刺激を与え、思考を活性化させる。こうしたセレンディピティ(偶然の幸運)が好奇心を生み出し、停滞した思考を打破する第一歩となるのだ。旅に出ることも、非日常の中で新たな発見と好奇心を呼び覚ます有効な手段である。

Q. 若々しく、学び続けるための秘訣は何か?
精神的な若さを保ち、学び続けるための秘訣は、意識的に「自分より若い世代との交流の機会」を持つことにある。子どもたちとの触れ合いや、教育の現場で学生たちと関わることは、凝り固まった思考をほぐし、マインドセットを常に最新の状態に保つ上で極めて効果的だ。年齢が上がるとどうしても固定観念が強まりがちだが、若い世代から常に新しい視点や価値観を吸収することで、柔軟な思考を維持できる。
年功序列といった古い考え方に囚われず、自ら積極的に若い人々の輪に入っていく姿勢が肝要だ。若い人々に好かれ、彼らと共に時間を過ごすことで、思考がアップデートされ、生涯にわたる学びのエネルギーが得られるだろう。若々しさは物理的な年齢に依存するものではなく、どのような環境に身を置き、どのようなマインドセットを持つかによって作り出されるものである。
