
「年収の壁」と財源問題
「年収の壁」の本当の問題点とは?社会保障のエキスパートが明かす制度の真実
社会保障制度を根本から作り上げた厚生労働省のエキスパート・香取照幸氏が、「年収の壁」問題の真相や社会保障制度の仕組みについて解説。「政治家に最も嫌われた役人」と呼ばれる彼が語る社会保障の真実とは?

Q. なぜ社会保障制度はこんなに難しいのですか?
社会保障制度が難しい理由は、医療、年金、介護、障害者支援、子育て支援など多岐にわたる分野をカバーしているからです。世の中にはうまくいっていないことがたくさんあり、それぞれに対応していく必要があります。
日本の社会保障費は約140兆円に達し、国のGDPの20%以上を占めています。国の予算の半分が社会保障費です。これは非常に大きな金額であり、マクロ経済にも大きな影響を与えます。例えば、高齢化率が高い地方では県民所得の2割程度が年金給付によるものです。
さらに社会保障制度は多くの利害関係者の調整が必要です。企業側は負担増を嫌がり、政治家は給付増には賛成でも負担増には反対する傾向があります。結果として、政治との関わりなしには制度を作れないのが現実です。

Q. 「年収の壁」の問題は実際どうなのですか?
「年収の壁」についてメディアでは、「壁があるから就労調整をしている」と報じられていますが、実態は違います。就労調整をしている人はそれほど多くありません。現在の人々は保険料を払って将来年金を受け取る方が賢明だと理解しています。
就労調整の問題は実は働かせる側、つまり経営者側の問題であることが多いのです。壁を超えると企業側の社会保険料負担が発生するため、「この辺で働くのをやめてください」と言われるケースが多いのです。
以前はパートタイマーへの社会保険適用拡大に対して、サービス業やスーパーマーケットなどが反対していました。企業側の保険料負担が増えるからです。しかし、最近は人手不足もあり、「社保完備」をアピールして人材を確保しようとする流れに変わってきています。

Q. 年収の壁を上げても根本的な解決にならないのでは?
その通りです。壁を上げたとしても、上げた先にまた新たな壁ができるだけです。また、壁によって手取りが減るというのは確かですが、それは保険料として支払われ、将来の年金給付として戻ってくるものです。
つまり、現在負担して将来給付を受けるか、現在の負担を諦めて将来の給付も諦めるか、という選択なのです。冷静に考えれば、どちらが得かは明らかでしょう。
むしろ収入があった時点で一定割合(例えば6%)を負担するという形にした方が分かりやすいでしょう。週1日しか働かず4万円の収入であれば、2000円か3000円程度の負担で、それに見合った保険の恩恵が将来受けられます。少なくても何らかの形で負担する仕組みの方が合理的です。
Q. 社会保障制度についてなぜ国民の理解が進まないのでしょうか?
理由の一つは「合理的無知」という現象です。人間の頭脳のリソースは限られているため、自分に直接関係することや関心のあることに集中する傾向があります。社会保障のような複雑な制度を理解するには多くの時間と労力が必要なため、多くの人は「理解するのは面倒だから」と考えます。
結果として、マスメディアの報道に依存して判断する人が多くなります。「103万の壁がある」と報道されれば、「自分にも壁がある」と思い込みます。実際に自分の給料明細を細かく分析する人は少数派です。
もう一つの理由は、社会保障に対する見方が人によって大きく異なることです。元気で若く、病気になることが少なく、年金をまだ受け取っておらず、失業もしていない人にとっては、社会保障制度は単に「負担」に見えます。
一方、がんになったり、障害のある子どもが生まれたり、親が認知症になったりすると、今度は「給付」の側面が重要になります。それぞれの立場によって社会保障制度の見え方が違うため、全体として調整するのが難しいのです。

Q. 社会保障制度の将来に向けた課題は何ですか?
一番考えなければならないのは、社会保障サービスを提供する「人的資源」をどう確保するかという問題です。お金の問題以上に、現実にサービスが提供できなくなる可能性があることが大きな課題です。
社会保障制度は再分配の機能を持っています。税金や保険料を徴収し、必要な人に給付することで、社会の格差を小さくし、社会を安定させる役割があります。しかし、保険料を下げようとすると、この再分配機能が弱くなります。
格差を縮めるには、所得分配の仕組みを公平にするか、税や社会保障で調整するかのどちらかです。分配で調整するには財源が必要です。減税するなら、その分の財源をどこかから持ってこなければバランスが取れません。
社会保障制度は負担と給付のバランスの上に成り立っています。負担についての理解を得るには、理屈だけでなく納得感が重要です。「金を払うのは嫌だけど、しょうがない」と思ってもらえるかどうかが鍵になります。
