
日本復活のカギは給料アップ
日本の実質賃金が30年間停滞した真因と再生への処方箋――「円安神話」の終焉と労働市場改革
日本経済は1990年以降、主要先進国の中で唯一ともいえる異様な実質賃金の長期停滞に直面している。
健全な市場経済においては、1時間あたりの実質賃金は1時間あたりのGDPとほぼ同じペースで成長しなければならない。
賃金が伸びなければ国民は生産物を購入できず、消費の不足を補うために政府は財政赤字の垂れ流しや極端な通貨安誘導に依存せざるを得なくなる。
半世紀にわたり日本経済を追究してきた米国人エコノミストの視点から、日本が抱える病巣の正体と、国力を蘇らせるための具体的な突破口を解き明かす。

Q. 日本において30年間も実質賃金が上昇しない構造的な原因は何なのか?
最大の原因は、主要先進国の中で最も深刻な「生産性の伸びと実質賃金の乖離」にある。
一般労働者の実質賃金は1990年当時とほぼ同水準にとどまっており、これほど長期にわたり実質賃金が伸びていない市場経済国は他に存在しない。
その根底には、全労働者の約7割を雇用する中小企業の賃金停滞と、低生産性企業の温存がある。
多くの企業は「賃上げの原資がない」と主張するが、30年間にわたり賃上げを行えない企業が市場に居座り続けていること自体が異常である。
本来の市場経済であれば、付加価値を高められない企業は市場から淘汰され、より生産性の高い企業へと労働者が移動していく。
しかし日本政府は、公的融資や手厚い信用保証によって不採算なゾンビ企業を延命させ続けてきた。
特許を多く取得するような革新的企業への労働移動が極めて低調なまま固定化され、経済全体の新陳代謝が阻害されているのだ。
日本の巨額な財政赤字やゼロ金利政策は経済低迷の根本原因ではなく、賃金抑制による内需不足を無理やり補おうとした結果生じた対症療法に過ぎない。
Q. 実質賃金を持続的に引き上げるために国や社会が実行すべき具体的な政策とは何か?

企業が自発的に賃上げを行わない以上、政府が断固たる制度介入を実施しなければならない。
第一に、インフレ率を考慮した最低賃金の大幅な引き上げである。
日本は過去15年から20年にわたり年率約3パーセントの最低賃金改定を続け、約2000万人を貧困水準から救い上げた実績がある。
現在のインフレ局面においては、物価上昇率に実質3パーセントを上乗せする改定を法制化すべきだ。
第二に、「同一労働同一賃金」の厳格な法的執行である。
男女間および正規・非正規雇用間の均等待遇を定めた法律は存在するが、罰則規定が曖昧であり労働基準監督署も積極的な摘発を行っていない。
企業側は業務のわずかな差異を口実に賃金格差を正当化し、裁判所もそれを追認する傾向が強い。
法制度を厳格に機能させ、不当な待遇差に明確な罰則を科す必要がある。
第三に、終身雇用制度の硬直性を緩和し、企業間の人材獲得競争を激化させることである。
転職時に非正規化する恐怖が労働者を縛り、企業側の「賃金を上げなくても辞めない」という甘えを許してきた。
スウェーデンが実践したように、賃上げに耐えられない低生産性企業の退出を促し、成長分野への労働移動を後押しする積極的労働市場政策が不可欠である。
Q. 「円安は日本経済に恩恵をもたらす」という従来の通念はなぜ崩壊したのか?

円安を国益とする論理は、過去の輸出主導型経済の遺物に過ぎず、現在では完全に有害な虚構となっている。
近年の円安の実態は、一般庶民や家計、中小企業から一部の輸出大企業へと富を吸い上げる巨大な所得逆移転メカニズムだ。
物価高の8割から9割は輸入エネルギーや食料の高騰に起因しており、円安が国民生活を容赦なく圧迫している。
かつてと決定的に異なるのは、大手自動車メーカーをはじめとする輸出企業の多くが生産拠点を海外へ移管済みである点だ。
為替要因で膨らんだ輸出企業の帳簿上の巨額利益は、海外での再投資に回り、国内労働者の賃上げや国内設備投資には十分に還元されない。
自動車会社は潤っても、国内の自動車工場の労働者や自動車を購入する庶民は何の恩恵も受けられない構図が定着している。
円安頼みの産業保護政策は国内の購買力を著しく削ぎ落とし、内需の持続的成長を根底から破壊している。
Q. 日銀の利上げや国債の財政危機論をめぐる議論のどこが本質を見誤っているのか?
「金利が上昇すれば国債の利払いが急増して財政破綻に陥る」という主張は、極端な危機感を煽る誤謬である。
日本政府が抱える既存債務の大部分は、過去の超低金利期に発行された長期国債で手当てされている。
翌年度に想定される国債の平均調達金利は0.6パーセントから0.7パーセント程度にとどまり、数年以内に即座の資金繰り破綻が起きることはない。
過剰な政府債務がもたらす真の脅威は、劇的な金融クラッシュではなく、経済の潜在成長率を徐々に削り落とす「緩慢な腐食」にある。
財政余力が失われることで、生産性を押し上げるための新産業支援や教育投資が滞り、賃金と生活水準が長期停滞へと追い込まれる。
他方で日銀は、輸入インフレの沈静化と、2013年水準から横ばいにある実質個人消費への配慮の間で深刻なスタグフレーション的ジレンマに直面している。
偽りの破綻劇を恐れるのではなく、内需の自律的回復に向けた実質賃金の底上げこそが注視すべき核心課題だ。
Q. 日本が直面する閉塞感を打破し再び成長軌道へ復帰するための鍵はどこにあるのか?

日本に必要なのは、文化や国民性のせいにして諦める「仕方がない」という思考停止を完全に捨てることである。
隣国の韓国は民主化運動の過程で労働運動と政党間競争が活発化し、積極的な賃上げと通貨防衛を通じて平均賃金で日本を大きく追い抜いた。
日本経済の課題は米国の深い社会的分断に比べれば遥かに政策的解決が容易であり、制度改革さえ行えば劇的に好転し得る。
再生を阻んでいる最大の元凶は、農業票や化石燃料ロビー、不採算企業を守り続ける政治的既得権益の保護である。
例えば国内に広がる膨大な耕作放棄地を再生可能エネルギーに転用すれば、日本の年間電力需要をほぼ賄える試算があるにもかかわらず、硬直的な農地規制が転用を拒んでいる。
食料安全保障という名目の下で放棄された農地を保護するような欺瞞を排し、合理的資源配分へ舵を切る政治的決断が求められる。
また、高度専門人材である博士号取得者の冷遇を是正し、科学的知見を事業価値へ転換できる人材を正当に処遇する企業慣行への転換も急務だ。
幸いにも、専門技能を持つ若年層の転職昇給や大企業によるIT人材の中途採用拡大など、労働市場には柔軟化の兆しが確実に芽生えている。
春闘参加の16パーセントにとどまらず、全労働者の実質賃金が一貫して物価を上回る環境を整備することこそが、日本再生の決定打となる。