
インドスタートアップ市場のリアル
スタートアップ大国インドの「現在地」不便から生まれる巨大ビジネスチャンスの源泉を探る
世界を牽引する成長市場として、いま世界から熱い視線が注がれるインド。その背景には、莫大な人口規模と急速な経済発展に加え、独自の市場構造がある。ベンチャーキャピタリストとして、いち早くインド市場の可能性を見出し、現地で投資活動を続けるインキュベートファンドアジア創業者である村上矢氏に、スタートアップ大国インドの「現在地」を聞いた。
本稿では、村上氏がインドに賭けた理由、日常生活に溢れる「不便さ」がもたらす巨大なビジネスチャンス、そして投資家として有望な起業家を見極める独自の評価軸に迫る。デジタル化が劇的に進んだ過去10年を経て、次なる成長を牽引する分野とは何か。そして、日本の製造業が果たすべき役割とは。インド市場の魅力と今後の可能性を解き明かす。

Q. なぜ、村上氏はスタートアップ投資の地としてインドを選んだのか?
大学卒業後、野村證券の投資銀行部門でベンチャー企業の上場支援や、ニューヨークでのテック企業担当を経験した。しかし、より創業者に近い立場でビジネスを育むことにやりがいを感じ、退職を決意した。その時期に、当時インドをはじめとするアジア各地に出張していた友人から「インドが格別に面白い」との誘いがあった。
友人曰く、インドは「他のアジア諸国とは次元が違うほど、若い人が多く、圧倒的な熱気があり、起業家の数が桁違いに多い」という。人口ボーナスと将来的な経済大国化が見えていたこともあり、日本やアメリカでは得られない機会がインドにあると直感したという。この決断は妻をはじめ、親やかつての上司など周囲からも強く後押しされたものだ。
Q. インドの「不便さ」が巨大なビジネスチャンスにつながるとは、具体的にどのようなことか?

インドでの生活は、日本に比べて想像を絶する不便さに満ちているという。例えば、「バスが3時間遅れる」「頻繁に停電や断水が起こる」といった事柄が日常茶飯事である。しかし、村上氏はこの不便さこそが、インドにおける最大の事業機会だと断言する。「不便なことが多いため、それを解消するソリューションを提供できる企業があれば、それは誰でも利用する」というのがその理由だ。事業のアイデアは、文字通り歩いているだけで次々と湧いてくる感覚だという。
村上氏が最初に現地で立ち上げた事業も、こうした不便の解消がテーマであった。当時は水漏れや電気系統の故障が頻発しても、信頼できる業者を見つけるのは困難であった。従来のイエローページは機能せず、頼んだ業者が来ない、来ても工具を持たない、など混沌としていたという。そこで、信頼できるサービス提供者と顧客をオンラインで結びつけ、サービスの品質を見える化するマッチング事業を展開し、生活の不便解消に貢献した。
Q. 初めて投資した小売DX「ショップキラーナ」から得た教訓は何だったのか?
村上氏が初めて投資した「ショップキラーナ」は、インドに約1000万店舗あるといわれる零細個人商店(キラーナショップ)向けの仕入れプラットフォームであった。これらの店舗では、商品の仕入れが営業マンによる紙ベースでのオーダーなど、極めて非効率に行われていた。その結果、P&Gなどの大手メーカーですら、どの店舗でどれだけ自社製品が売れているかという販売データを把握できない状況だったという。
「ショップキラーナ」は、この非効率な仕入れをオンラインで一元管理することで、キラーナショップの在庫管理を容易にし、同時にメーカーに販売データを提供するモデルを構築した。これにより、メーカーは地域ごとの商品ローンチ戦略やマーケティング計画をデータに基づいて策定できるようになる。投資の決め手となったのは、創業者チームの極めて高い「業界解像度」と、「絶対に諦めない」不屈の精神であった。
元P&G出身の創業メンバーたちは、FMCG(Fast Moving Consumer Goods)流通の困難さを実務を通して深く理解しており、その経験に基づいて最適なソリューションを提示していた。また、粘り強く事業に取り組む姿勢から「彼らならギブアップしないだろう」と確信できたことが、大きな投資理由となった。この経験は、他のファンドと差別化するための、後の「有望モデルから逆算する」投資スタイルの基礎となった。
Q. 投資家として「有望な起業家」を見極めるための独自の評価軸は何であるか?

村上氏は、大手VCに対抗し、インド市場で勝ち残るために「有望なビジネスモデルを自分たちで定義し、それを実現できる起業家を探して投資する」という逆算型のアプローチを採用した。この戦略では、事業モデルの良し悪しよりも、起業家自身の「質」を重視する。
起業家を見極めるために、複数回、かつ様々な状況下で面談を実施するという。具体的には、通常のオフィスでの面談に加え、起業家の職場で部下とのやり取りを見る機会、プライベートな会食(できれば酒を交え、人柄の変化を見る)、さらに家族や親しい友人同伴での面談などを設け、多角的に人物像を評価する。「事業モデルは後からいくらでも修正可能だが、起業家そのものが変わることはない」という考えが根底にある。彼らにとって最大の投資リスクは、事業が失敗することではなく、創業者が途中で情熱を失い「ギブアップすること」である。そのため、「10年間は情熱を持ち続けてくれるか」「困難に直面しても諦めずに走り続けられるか」という持久力を重視し、また毎週の緊密な議論をお互いストレスなく進められる「ケミストリーの良さ」も重要視している。
Q. この10年間で、インドのスタートアップエコシステムと投資環境はどのように変化したのか?
過去10年でインドのスタートアップエコシステムは劇的な進化を遂げた。まず、起業家の質が圧倒的に向上している。黎明期は玉石混淆であったが、現在はユニコーン企業を経験し、上場まで導いた熟練の人材がスピンアウトして再起業する好循環が生まれており、質が高いチームが多く登場している。
また、モディ政権主導による大規模なデジタルインフラ整備が大きな変化をもたらした。携帯電話の通信料金は97%も下落し、所得が低い層でも常時インターネット接続が可能になったことが、デジタルビジネス普及の礎を築いた。加えて、国民全員に固有のIDを割り当てる「アダール」制度や、銀行間の即時送金システム「UPI」が整備され、これらが民間企業にAPI公開されたことで、スタートアップは認証や決済における開発コストを劇的に削減でき、爆発的な成長を遂げた。「バンガロールはインドのシリコンバレー」と呼ばれる通り、人材の流動性が高く、高度なテクノロジー開発に適した土壌が形成されている。
Q. デジタルインフラが整備された今、次の5年で注目すべきはどのような分野か?

デジタルインフラの整備が一巡した現在、モディ政権が次に注力するのは「製造業の国産化」と「ディープテック(深層技術)」領域である。地政学的なリスクや国際情勢の変化により、中国一辺倒のサプライチェーンからの脱却を目指し、あらゆるものを国内で生産する方針を強めている。この分野は、これまでインドが中国に約15年遅れているとされる部分であり、そこに莫大な投資と政府のサポートが集中すると予想される。
具体的には、半導体製造、AI開発、そして人工衛星打ち上げなどの宇宙産業において、強力なガバメントサポートが期待できる。過去10年間、村上氏自身が直接投資してこなかったこれらの領域は、向こう5年間で最も大きな投資テーマとなる見込みだ。インドは優秀な人材が豊富であり、適切なディレクションと強い意志があれば、いかなる事業も成長させることができるポテンシャルを秘めている。
Q. 日本企業はインド市場でどのような役割を果たすことができるか?
インド市場の最大の魅力は、16億人の巨大な人口規模と、類を見ない「変化率の大きさ」である。高度に洗練された成熟市場とは異なり、不便さが残っているからこそ、イノベーションと社会実装のスピードは驚異的だ。村上氏たちは、この成長予測のために15年前の中国市場や日本の高度経済成長期を参考にしているという。
特に、インドがデジタルの次に焦点を当てる製造業の国内生産強化において、日本の強みが活かされるチャンスは大きい。世界に誇る日本の製造業の知見、経験値、そしてテクノロジーは、今のインドがまさに求めているものだ。村上氏は、「このタイミングで参入し、インド企業と連携を組まなければ、5年後にはこの大きな機会は失われているだろう」と、日本企業への強い危機感を込めて訴える。まさに日印スタートアップ連携にとって、今が歴史的な「潮目」であると強調した。
