
平成のスマイル0円は古い
「感情ミュート社会」の新潮流:消費者の「整える・伝える・触れる」欲求と企業戦略
近年、摩擦を避け無用な軋轢を生み出さないよう、人々が感情表現を抑制する傾向が強まっている。
博報堂生活総合研究所は、この現象を「感情ミュート社会」と名付け、現代の日本における新たな消費者インサイトを提示した。
この社会変容は単なる感情の希薄化ではなく、その中で独自の形で感情を「整え」、安全に「伝え」、さらにはエンタメとして「触れる」という三つの新たな欲求を生み出している。
企業は、これらの深層的な欲求を理解し、従来のマーケティング戦略をアップデートする必要があるだろう。
本記事は、この感情ミュート社会の本質と、それに伴う消費行動の変化、そして企業が取るべき具体的なアプローチを探求する。

Q. 感情ミュート社会とは何か?その背景には何があるのか?
感情ミュート社会とは、人間関係の軋轢を避け、感情表現を抑制する傾向が顕著な社会の状態を指す。
この背景には、サービス業の拡大に伴う「感情労働」の増加とその反動が大きく関係している。
マクドナルドの採用キャンペーン「スマイルあげない」は、この社会変化を象徴する。
従来の「スマイル0円」とは対照的に、従業員に無理な笑顔を強制しないという価値観を打ち出し、カンヌライオンズも受賞した。
この事例は、無理に感情を引き出すことは「違う」と捉えられる時代に移行したことを物語っている。
Q. 現代人は感情を「整える」ために、どのような方法を用いているのか?
感情ミュート社会では、外に出せない感情を内側でどう処理し「整える」かというニーズが極めて高い。
約8割の人が自身の感情と向き合いたいと考える中で、現代人は他者視点での感情整理を行う傾向にある。
若者を中心に流行する「現代短歌」は、自分では言葉にしきれない感情を、他人が詠んだ歌を通して明確にする役割を果たす。
AIも活用され、人間関係の複雑なモヤモヤに対し、スピリチュアルな視点など意外な解決策を求めることで、納得感を見出す事例もある。
また、自身の感情が妥当か他者と比較して確認する行動も目立つ。ライブチケット当選の喜びを素直に出せず、SNSで落選者を探し自分の感情の「適正さ」を確認するといった例である。
これらの行動は、一人で抱え込まず外部の多様なリソースを活用して感情の輪郭をはっきりさせる現代の感情整理術である。

Q. 安全に感情を「伝える」ため、どのようなコミュニケーションが進化しているのか?
感情ミュート社会においても、約8割の人が感情表現において気の利いた言い方をしたいと考えており、相手を傷つけず自分も不快な思いをしない「安全な伝え方」への強いニーズがある。
そのための手段として、個人情報が秘匿された関係性でのコミュニケーションが活用される。
X(旧Twitter)のスペースなどでは、相手の学歴や年収、容姿といった情報が分からないフラットな環境が、本音を話しやすい安心感をもたらす。
ネットミームを用いた冗談めかした感情伝達も有効である。「みんなの話題」に紛れて本音や愚痴を発信することで、発信者の責任が分散され、心理的なハードルが下がる。
AIを活用した表現のチューニングも進む。後輩への指導や注意の際、イライラが文面に滲み出ないようAIに文案を作成・調整させることで、感情的なトゲを抜いた円滑なコミュニケーションが可能となる。
これらは心理的安全性を確保し、無用な軋轢を避けつつ感情を表現する現代の工夫と言える。
Q. 他者の感情や刺激に「触れる」ことにはどのような欲求が隠れているのか?
自分も他者も感情を抑制する現代社会では、生々しい感情に触れる機会が減少した。しかし、6割以上の人が「他者の感情に触れたい」と強く望むため、感情そのものが「希少な資源」としてエンタメ消費の対象となっている。
具体的には、配信コンテンツで他者のリアルな口論や痴話喧嘩を安全な距離から観覧し、カタルシスを得る行動が見られる。
また、Xスペースなどで他者の占い相談を傍聴する行動も盛んである。相談者と占い師の生々しいやり取りや感情の起伏を、編集されていないリアルな姿としてデジタル空間で味わう。
究極的なのは生成AIを用いた「AI推し活」である。
自身が好む仮想の「推し」キャラクターをAIで作成し、「君は特別な存在だ」といった自身が言われたい言葉を語らせ、その感情の言葉に触れて楽しむ。
これらを通じて、人々はポジティブ・ネガティブ双方の感情を、安全な形であればエンタメとして触れたいと願う。感情が消費可能なコンテンツへと変容しているのである。

Q. この感情ミュート社会において、企業にはどのような新たな機会が生まれているのか?
感情ミュート社会は企業に新たなビジネス機会と変革を促す。
まず、「感情を整える」欲求への対応として、自身の感情を捉えやすくする「可視化」の仕組みが有効である。
怒りをテーマにした体験型イベント「ドドドランド」は他者の感情に触れて自身の怒りを確認させ、DAZNはAIでスポーツ観戦中の感情を可視化し購買に結び付ける。
次に、「安全に感情を伝える」欲求への対応として「インターフェース設計」が鍵となる。
全員が「ギャル」という役割を演じる「ギャル式ブレスト」は、普段のしがらみから解放され心理的安全性の高い発言を促す。
また、家族間の伝言役を担うロボット「ボッコエモ」のように、第三者を介してデリケートな感情を安全に伝達する手法も有効である。
最後に、「感情にエンタメとして触れる」欲求への対応として、ブランド自身の「感情表現」が重要となる。
「絶対にバズるSNS Y」はSNSでの炎上体験を安全な形で提供し、Duolingoのキャラクターはサボるユーザーに怒りや悲しみを表現することで学習継続へのエンゲージメントを高めている。
これは、企業がネガティブな側面をも含むリアルな感情表現を行うことで、生活者との親近感や共感を築ける時代が到来したことを意味する。
感情ミュート現象は、日本固有のものであるかどうかも議論されているが、ハワイの「不機嫌ハラスメント」制度やスペインの明確なコミュニケーション文化など、海外との比較で多様な文化差が示唆された。さらに、感情表現のエネルギー消費と現代の摂取カロリー低下との関連性も仮説として提唱されている。
結論として、感情ミュート社会は感情が失われたわけではなく、むしろ感情とどう向き合うかの選択肢が格段に増えた社会である。企業はその変化を捉え、共感を生む新たな方法を提示する大きなチャンスを得ていると言えよう。
