
給与上がらない理由とは?
データで暴く「安い賃金」の正体:なぜ企業が最高益を出しても給与は上がらないのか
物価高が続く日本において、長年叫ばれ続けている最大の疑問が「なぜ私たちの給与は上がらないのか」という点である。
企業の決算発表では過去最高益や株高のニュースが飛び交う一方、現場で働く人々の生活実感は一向に改善していない。
この不都合な現実の背景には、直感的な印象とは全く異なる経済統計の冷徹な構造が存在している。

町工場の職人兼経営者であり、経済データを精緻に分析し続ける小川真由氏が、賃金停滞のメカニズムを解き明かした。
長年信じ込まれてきた「日本企業は投資不足」という通説を覆し、安売りから抜け出すための処方箋を提示する。
Q. 企業が過去最高益を記録しているにもかかわらず賃金が上がらないのはなぜか?
多くの人が抱く「企業が儲かっているなら給与を増やすべきだ」という不満は、利益の質を誤解していることから生じる。
ニュースで大きく報じられる企業の好業績の多くは「当期純利益」の数字を指している。

法人企業統計を確認すると、企業の当期純利益や配当金は1997年以降に何倍にも跳ね上がっている。
しかし、その原資となっているのは国内事業の成長ではなく、営業外収益の増大である。
低金利政策によって支払利息が大幅に減少したことや、成長著しい海外への直接投資によるリターンが利益を押し上げているのだ。
一方で、国内の従業員に分配される賃金の原資は「国内で生み出された付加価値」に完全に依存している。
海外投資でいくら企業が潤っても、国内拠点が稼ぎ出す付加価値が増加しなければ人件費の原資は増えない。
企業目線で見れば、国内の現場が伸び悩んでいても海外収益や金融要因によって利益が確保できるため、国内構造を抜本的に変えずに済んできた。
この国内付加価値と企業利益の乖離こそが、従業員が豊かさを実感できない根本要因である。
Q. そもそも賃金の源泉となる「付加価値」とは具体的にどのようなものか?
付加価値という概念は難解に思われがちだが、身近なラーメン屋のビジネスモデルに置き換えると明快に理解できる。
ラーメン屋は麺やスープの原材料を仕入れ、店舗設備を使って調理し、客にラーメンを1杯1000円で提供する。
この売上高から仕入れ業者へ支払った原材料費などを差し引いた残額が、その店舗が生み出した付加価値である。
仮に仕入れ費用が600円だとすれば、残る400円が付加価値となり、これが事業活動を通じて手元に残る富の総額となる。
手元に残った付加価値から、店舗は従業員の給料を支払い、設備の減価償却費を賄い、税金を納め、最終的な利益を確保する。
つまり、給与として人々に分配できる総量は、付加価値の絶対額を上回ることは原理的にあり得ない。
日本全体の付加価値を合計したものが国内総生産(GDP)であり、1997年以降の日本経済はGDPと雇用者報酬と家計消費が三すくみで横ばいを続けている。
どれほど労働者が賃上げを望んでも、付加価値そのものを増やさない限り、パイの奪い合いにとどまる。
Q. 賃金が上がらない真の原因が「企業の投資不足」ではないというのはどういうことか?
世間では「日本企業は内部留保を溜め込んで投資を怠ってきたから衰退した」という言説が定説のように語られている。

しかし、経済統計を子細に分析すると、日本企業はむしろ極めて大規模な投資を継続してきた実態が浮かび上がる。
問題の本質は投資の不足ではなく、バブル期に積み上がりすぎた過剰な固定資産の存在にあった。
設備投資は実行した瞬間に全額が費用化されるわけではなく、耐用年数にわたって減価償却費として毎年計上される。
経済統計ではこれを「固定資本減耗」と呼ぶが、過剰な設備を維持するための費用が毎年の付加価値から容赦なく差し引かれていた。
付加価値全体が増えない中で設備維持費が膨張し続けた結果、企業と労働者で分配できる純付加価値が大きく削り取られたのだ。
企業は巨額の固定資産維持費を捻出するため、人件費という最大の変動費を切り詰める選択を迫られた。
過剰投資による固定資産の重荷が賃金引き下げの引き金を引いたという事実は、通説とは真逆の皮肉な真実である。
Q. 日本経済全体を覆い尽くした「安さへの依存」はどのように定着したのか?
過剰な投資によって国内には巨大な生産能力が蓄積され、市場は恒常的な過剰供給に陥った。

買い手の需要に対して供給能力が上回れば、商品を販売するために企業は価格を引き下げるしか選択肢がなくなる。
これが日本を長期停滞へ追い込んだデフレスパイラルの発端である。
特に深刻だったのは、一般消費者が目にする店頭価格よりもはるか昔、1980年代からBtoBの企業間物価指数が停滞・下落していた点だ。
日本の取引慣行では取引価格が硬直化しやすく、親企業からのコスト削減要求を力関係で受け入れる構造が定着した。
仕事を請け負う側は価格を削ってなんとか受注を維持し、そのしわ寄せとして自社の従業員の給与を抑え込んだ。
賃金を下げられた労働者は消費者として生活防衛に走り、より安価な商品やサービスしか選ばなくなる。
この「安売りしなければ売れない」という強迫観念がサプライチェーン全体を侵食し、誰もが貧しくなる罠を固定化した。
Q. 付加価値を生み出す「資本の仕事」と「人の仕事」にはどのような違いがあるのか?
経済構造を本質から紐解くと、あらゆる企業の業務は「人の仕事」と「資本の仕事」の二つに大別できる。

人の仕事とは労働者が自らの技能や頭脳を提供することであり、資本の仕事とは機械設備やAIなどの固定資産が稼働して価値を生むことである。
例えばファミリーレストランの配膳ロボットは、かつて人間が行っていた運搬業務を資本の仕事に置き換えた典型例だ。
資本の仕事は導入当初こそ高い付加価値を生むが、技術が普及すれば急速に陳腐化し、単なる当たり前の光景に変わる。
陳腐化した機械やシステムの仕事にはプレミアムがつかず、その価値はやがて維持費である減価償却費と同水準にまで収斂していく。
本来の資本主義が目指すべきは、機械やAIといった資本の仕事をテコにして、人間にしか担えない仕事の価値を引き上げることにある。
しかし日本は、設備の維持費を賄うために人の仕事の対価を削るという本末転倒の過ちを犯してきた。
AIが急速に進化する現代において同じ過ちを繰り返せば、人間の知能労働までが安価な維持費水準に叩き落とされる危険性がある。
Q. 中小企業が低賃金から脱却し稼ぎを増やすためには何が必要なのか?
中小企業は生産性が低いと批判されがちだが、現場の作業が非効率であることだけが原因ではない。
どれほど合理的に磨き上げられた工程であっても、発注側から不当に安い対価しか支払われなければ、計算上の生産性は低迷する。
仕事とは本来、顧客が自分で行うよりも有益だと判断した行為を代行し、その価値を認めてもらう営みである。
中小企業が飛躍するための第一歩は、自社が提供している技術やプロセスの価値を正確に棚卸しし、非合理な値引き要求を拒絶することだ。
同時に、自社が仕入先に対して買い手となる際にも、相手の提供する価値を適正に評価して正当な代金を支払わなければならない。
売り手として適正価格を堂々と要求し、買い手として相手の価値を目利きして敬意を払う関係性を築くことが欠かせない。
長年続いた供給過多から供給不足へと局面が転換した今こそ、全員が適正価格の共通認識を持つ好機である。
安売り合戦から抜け出し、互いの仕事に正当な対価を認める文化を再構築することこそが、日本全体の賃金を底上げする唯一の道である。
