
働き方の科学(前編):残業は1時間でも健康リスクが増す
科学が示す「賢い働き方」の真実:生産性、健康、キャリアを両立させる法則
「働き方の科学」の著者、佐藤豪竜氏は、働き方改革が進む現代において新たな課題に直面する我々へ、科学的なエビデンスに基づく「賢い働き方」の指針を提示する。

本記事では、佐藤氏の知見を通して、長時間労働のリスクから、人生を豊かにする時間の配分、キャリア形成と健康のバランスまでを深掘りする。データに基づいた最適解を探り、あなた自身のワークスタイルを見直す機会となるだろう。
Q. 長時間労働は本当に「健康に悪い」と言えるのか?具体的な根拠は何か?
長時間労働は健康に明確な悪影響を与える。科学的なエビデンスが、わずか1時間の残業であっても脳卒中のリスクを高めることを示している。週35~40時間の標準労働時間を基準とした場合、週41~48時間の労働で脳卒中の罹患リスクは10%上昇するとされる。
さらに労働時間が週49時間、55時間と増加するにつれて、このリスクは比例して高まる一方だ。特に週55時間以上の労働は「過労死ライン」とされ、脳卒中リスクは33%も増加する。この傾向はデスクワークと肉体労働のいずれにおいても共通であり、業種や職種を問わず長時間労働が健康に及ぼす害は大きい。週休3日制の導入が進む背景には、医学的な観点からの健康改善効果も挙げられる。
Q. 「働き方改革」が進む現代において、新たな課題は生じているか?
働き方改革の推進は一般従業員の労働環境を改善する一方で、新たな課題も生み出している。特に顕著なのが「管理職へのしわ寄せ」だ。一般社員の残業が厳しく制限される結果、業務負担が管理職に集中し、彼らの労働時間がむしろ伸びる傾向が民間の調査で指摘されている。これは制度設計が不十分なまま規制を進めた場合に起こる副作用だ。
この問題の背景には、著者である佐藤氏自身の過去の経験がある。佐藤氏の父親は過労死と見られる状況で亡くなったが、国は労災を認めなかった。この壮絶な裁判闘争が、佐藤氏が厚生労働省の官僚を経て、働き方の科学的な研究者へと転身する原点にある。過労死のない社会を目指す中で、単なる制度改正だけでは解決しきれない根深い問題が存在することを痛感したのだ。
Q. 人生における時間の使い方を最適化する「グロスマンモデル」とはどのようなものか?
「グロスマンモデル」とは、1972年に提唱された医療経済学の有名なモデルであり、人生の時間配分を最適化する概念である。

人は皆、24時間という平等な時間を与えられているが、病気による時間を差し引いたものが「可処分時間」となる。この可処分時間を「労働」「余暇」「健康投資」の3つに割り振る。
労働は所得を生み、その所得で余暇を楽しみ、健康投資を行う。余暇は直接的な幸福をもたらし、健康投資は「健康資本」(RPGのHPのような概念)を高める。健康資本が蓄積されれば、病気になる時間が減少し、結果的に可処分時間が増加し、さらに幸福も生み出す。一時的に労働に集中しすぎると、健康資本を消耗し、長期的に見れば労働できる時間が減るというジレンマがあるため、バランスの取れた時間配分が人生の幸福と持続可能な生産活動にとって不可欠である。
Q. 長時間働くことによって仕事の「生産性」は向上するのか?
「長く働けば働くほど、より多くの成果が出る」という考え方は誤りである。OECDデータを用いた各国の年間総実労働時間と1時間あたりのGDPの比較では、労働時間が長い国ほど1時間あたりの付加価値、すなわち生産性が低いという負の相関が明確に示されている。がむしゃらに働くことが生産性向上に繋がるわけではない。
さらに、ミクロレベルの研究でも同様の傾向が確認されている。第一次世界大戦中のイギリス砲弾工場の分析データでは、週48時間までは生産量が労働時間に比例して伸びるものの、それを超えると生産量は頭打ちとなり、ミスが増加し、やがては生産量自体が低下するという結果が出ている。

これは長時間労働による疲労蓄積がパフォーマンス低下を招き、生産量をかえって落とすことを意味する。心身の疲労は蓄積される一方で、良いことは何もないのだ。
Q. スキルアップに必要な「1万時間の法則」は今でも通用するのか?
「プロになるには1万時間の努力が必要」とされる『1万時間の法則』は、科学的なエビデンスに欠ける俗説である。元々はバイオリニストの研究から生まれた概念だが、研究者が「1万時間」という言葉を使ったことは一度もなく、ジャーナリストが本の中で誇張・命名したものであった。
エリクソン教授自身も後にこの法則を否定しており、実際にはトップクラスのバイオリニストの半数は、20代までに1万時間の練習を積んでいなかったことが示されている。これは、量をこなせばスキルアップできるという考えの誤りを示唆する。重要なのは時間そのものではなく、その質である。失敗の原因を分析し、改善策を考え、質の高い試行錯誤を繰り返すことの方が、無計画な長時間労働よりも遙かにスキルと成果に繋がるのだ。
Q. 健康を犠牲にしてでも長時間働く価値はあるのだろうか?キャリアと健康のトレードオフについてどのように考えるべきか?
キャリアと健康の間にはしばしばトレードオフが生じる。ある研究では、MBA取得者を対象に、昇進の確率と労働時間の関係を分析した結果、週48時間を超えて初めて昇進の確率が高まることが示されている。これは、上司に対して「やる気」を示すシグナリング効果としての長時間労働が、組織においては未だ機能している現実があることを示唆する。

そのため、健康を考慮すれば週48時間以内に労働を抑えるべきだが、出世や収入を求めるならばそれを超えて働かなければならないという日米共通のジレンマが存在する。人生のどのステージで健康資本を犠牲にし、キャリアに投資するかは個人の戦略的判断となる。アメリカのエリート層が運動などに熱心なのは、健康資本を上げて許容量を増やし、より多くの時間労働に充てながらも健康を維持する「最適戦略」を実践しているためだろう。
Q. 組織における非公式な交流は、現代のキャリア形成においてどのような意味を持つのか?
職場における非公式なコミュニケーションは、現代においてもキャリア形成に影響を与えうる。例えば、「タバコ部屋」での交流は、リラックスした雰囲気で上司や他部署の幹部と意見交換する貴重な機会となり、非公式な意思決定の場となることが実際にあったと佐藤氏も語る。
また、中国の研究では「ノミニケーション」が男性の出世に有利に働いたという結果も存在する。これらは、特定の嗜好や活動を通じて上司との距離を縮め、信頼関係を構築する「シグナリング効果」やリラックス効果に起因すると考えられる。しかし、近年では健康を重視し、ランニングなどの「スポーツを絡めた健康的なコミュニケーション」で関係性を築く動きも広がりつつある。在宅勤務においても生産性が低下するどころか向上するというデータもあり、効率的な時間と自己管理が、新しい時代のキャリア形成を左右する重要な要素となるだろう。