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森保監督をどう評価すべきか?
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2026年8月8日

W杯ラウンド32で敗北した日本代表。森保監督をどう評価すべきなのか?そもそも、監督の評価とはどうあるべきか?JOCのサービスマネージャーとして、監督の育成・評価などを行う中竹竜二氏に聞いた。 <ゲスト> 中竹竜二 | チームボックス代表 JOCサービスマネージャー。早大卒業、英レスター大院修了。三...
森保監督から探る「指導者の器」:評価基準と組織文化の真実
サッカーワールドカップ後の森保監督に対する評価は、今なお議論を呼んでいる。
一方向的な称賛と批判の応酬が繰り返される中で、本来指導者をどのように評価すべきなのか、その基準や「器」の本質について、専門家の視点から深く掘り下げる必要があるだろう。
本稿では、JOCサービスマネージャーでコーチングディレクターとしても活躍する中竹竜二氏の見解をもとに、日本サッカー界の議論を、より普遍的なリーダーシップ論、組織論へと昇華させる。


Q. 森保監督はなぜ自律的に考える「自走型組織」を確立した名将と評されるのか?
森保監督が高い評価を受ける理由の一つに、選手たちが自ら考え、主体的にチームを構築する「自走型組織」の土壌を作り上げた点がある。
監督自身のエゴを極限まで縮小し、チームという大義を最優先した結果である。
就任当初、「戦略がない」「指示が薄い」といった批判が多数寄せられたにもかかわらず、自身のスタイルを一貫して貫いた彼の姿勢が、ボトムアップ型の場作りを成功させた。
学術的な発達段階の観点から見ても、自己の役割を全体のフローの一部と捉え、意図的にトップダウンを作らない組織運営は、極めて高いレベルで一貫性のあるリーダーシップを示すものである。
このような自走型チームの育成が常に最善であるとは限らないが、日本のスポーツ界が長らく抱えてきた強力なカリスマによる「トップダウン型」リーダーシップからの転換点となり、その影響はサッカーのみならず他競技にまで波及していると中竹氏は語る。
Q. 監督を評価する際、どのような視点と主体が必要となるのか?
監督の評価には必ず「評価者」が必要であると中竹氏は指摘する。
ワールドカップのような国民的イベントにおいては、国民一人ひとりが監督を評価する権利があるものの、公式な評価主体はあくまでサッカー協会であるべきだ。
世論では結果に対する「〜すべきだ」といったべき論に終始しがちだが、これでは評価の核心にはたどり着かない。
評価には、FIFAランキングの長期的な向上や育成プロセスの推進といった多角的な視点が存在するはずであり、協会が事前にどのような評価軸を設け、どのような目標を監督と共有していたかが極めて重要となる。
今回の森保監督への評価が難しかったのは、国際的な「実力相応」という見方と、日本国民の「もっとやれたはず」という期待値との間に乖離があり、評価が多岐にわたるためだろう。
多様な評価が存在すること自体はダイバーシティの表れとして歓迎すべきであると中竹氏は結論づける。
Q. スポーツ組織は、目標や評価軸をどの程度まで社会に開示するべきか?

公共性の高い組織であるサッカー協会も、目標や評価軸の全てを社会に開示することが常に最善ではないと中竹氏は説く。
これは企業のCEO評価基準を全て開示しないのと同じ原理である。
目標の全面開示は、ガバナンスが脆弱な場合、組織の機能不全を招きかねない。
具体的な目標数値を公表することが、外部からの精神的プレッシャーを誘発し、選手やスタッフのウェルビーイングを損なう可能性があるのだ。
実際にノルウェーやオーストラリアなどのスポーツ先進国では、選手の「ウェルビーイング」(心身の健康と幸福)を最重視し、メダル目標などを内部では共有しつつも、対外的には具体的な数値を非公表とする戦略的アプローチを試みている。
目標公表が、結果が出なかった際のバッシングやバーンアウト(燃え尽き)を引き起こすという研究結果に基づくもので、今後の日本のスポーツ界もこの流れを汲む可能性が高いと見られる。
Q. 「優勝」という言葉が持つWill(意思)とGoal(目標)の混同が引き起こす問題とは何か?
サッカーにおける「優勝」という言葉は、個人の内発的な「意思(Will)」と、達成すべき「目標(Goal)」が混同されやすいと中竹氏は警鐘を鳴らす。
遠藤キャプテンらが掲げた「優勝」の真意は、本来、選手一人ひとりが高みを目指して自己研鑽する組織文化の醸成にあったはずである。
組織文化とは、目に見えない空気感や関係性、真似されにくい強みを生むものである。
しかし、一旦監督が公の場で「優勝」と発言すると、この内発的なWillがメディアを通じて、外部からの「必達の約束」としてのGoalにすり替わってしまう。
この混同は、目標が硬直し、修正困難な状況を生み出す危険性がある。
挑戦的な組織文化としての「優勝」は歓迎すべきだが、これが結果に対する厳格な「ノルマ」と化し、選手や監督の自由なWillを縛ることがあってはならないと中竹氏は強調した。
Q. スポーツ組織の目標は、現状と変化に応じてどのように柔軟に修正すべきか?
日本の多くの組織に蔓延する「一度決めた目標は変えられない、変えたら負け」という思考は不毛であると中竹氏は断じる。
目標は、常に現状とエコシステム型(波のある変化)の成長を考慮し、ブラッシュアップされるべきだからだ。
実力が伴わないと判断すれば、下方修正することも潔い判断であり、無理な目標設定は組織の短期的な成果を生むことがあっても、中長期的にはリバウンドによって組織の疲弊を招く。
リーダーが「理想的な正論」ではなく、自身の葛藤や現実の躓きを伴った生の声で目標修正の経緯を語ることができれば、それが却って誠実な信頼関係の構築に繋がり、組織全体をより強固なものにする。
目標修正を躊躇せず、透明性をもって対話できるリーダーの「器」こそが、変化の激しい時代に求められるのだ。
Q. 学術的な観点から見た「監督の器」とは、具体的にどのような能力を指すのか?

日本特有の概念である「器」は、学術的には人間の「発達段階」または「発達領域」として捉えられ、その広さには多岐にわたる側面がある。
一般に約10の測定領域が存在すると言われ、例えば以下の要素が含まれる。
自身の自我を縮小し、他者やチームの大義を優先する「利他性」。森保監督に顕著な、日本のための献身性はまさにこの側面を体現している。
物事を複雑なままに全体を俯瞰し、メタ的な視点で捉える「認知の広さ」。システム全体や抽象的な連鎖を認識する能力である。
「規律と自由」「選手育成と試合勝利」といった、相反する矛盾する複数の概念を統合し、状況に応じてバランスを取る「矛盾への適応力」。
中竹氏の分析では、森保監督はこのいずれの側面においても高いレベルで「器」を発達させていると評価されている。
Q. 「器の大きさ」は勝利に必ずしも直結しないのはなぜか?また、過度な「団結信仰」の危険性とは何か?
「器が大きいこと」と「試合に勝つこと」は必ずしもイコールではないと中竹氏は断言する。
むしろ、器が大きいリーダーほど、物事の多面的なリスクや他者の痛み、自身の嫌な側面をも精緻に見通せるため、時に非情になりきれず立ち止まってしまい、目の前の短期的な勝負でのパフォーマンスが下がる逆説も存在する。
歴史上、サイコパス的な冷酷さを持つ「ダークトレイト」と呼ばれる指導者が、短期的には圧倒的な結果を残してきた事例も少なくない。
森保監督の人間味あふれる「いい人」というパブリックイメージの裏には、批判的なメディアに直接働きかけ懐柔するなど、勝利のために「ずる賢い」側面を戦略的に使い分ける「ダーク森保」が存在すると吉崎氏は指摘する。
この自身のダークな側面までをも客観的に捉え、必要に応じて活用できるのが真に「器が大きい」証拠と言えよう。
さらに中竹氏は、日本にありがちな「過度な団結信仰」にも警鐘を鳴らす。
チームが「仲良し世界一」と強調し、意見の衝突や分裂を恐れることは、スタートアップが大企業病に陥り創造性を失うのと同じである。
真の強固な組織は、批判や多様な意見の摩擦による「分裂」を乗り越え、「統合」することで高次元へと進化するのだ。