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なぜジョブズは日本を愛したのか?
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2026年6月20日

Appleの元CEOとして今も語り継がれるスティーブ・ジョブズ。実は初代マッキントッシュの発表時、デモ画面に「日本の版画」を映し出していた。なぜジョブズはそれほど日本を愛したのか?長年取材を続けた元NHK記者の佐伯健太郎氏に聞いた。 <ゲスト> 佐伯健太郎|元・NHK記者 1987年にNHKに入局...
なぜジョブズは日本を愛したのか?:謎の「新版画」に秘められたAppleの哲学
アップル共同創業者、スティーブ・ジョブズ。彼の洗練された美意識と革新的な製品は、世界中に多大な影響を与えた。しかし、彼の哲学の深奥に日本文化がどれほど強く息づいていたかを知る者は少ない。
なぜ彼は初代Macintoshの発表時に、日本人ですら知る人が少なかった「新版画」を採用したのだろうか。この一見不可解な選択の裏には、日本文化への深い洞察と、Appleの根源を形作る独自の美意識が隠されていた。元NHK記者の佐伯健太郎氏へのインタビューを通じ、ジョブズの日本への愛とその製品哲学への影響を探る。

Q. Macintoshの広告に日本の「新版画」が使われた背景には何があったか?
1984年のMacintoshデビュー時、広告写真に登場したのは浴衣姿の日本人女性を描いた「新版画」、橋口五葉作の「髪梳ける女」だった。当時、この作品は日米ともに知名度が低く、多くの関係者に違和感を与えたが、これはジョブズ自身の強いこだわりによるものだった。
ペプシから引き抜いたジョン・スカリー元CEOによると、ジョブズはこの作品を通じてMacintoshの根本思想を表現しようとしたという。コンピュータで誰もが創造し、自己表現できる世界、それを彼は新版画に重ね合わせていた。
Q. ジョブズが日本の「新版画」に魅せられた原点はどこにあるのか?
ジョブズの日本文化への愛は、抽象的な思想から生まれたものではない。彼が13歳の頃、親友ビル・フェルナンデスの家に頻繁に出入りしていたことが原体験となっている。フェルナンデス家は日本美術に関心のある家庭で、リビングには川瀬巴水の「新版画」が多数飾られていた。

ジョブズはガレージでの電子工作に熱中する傍ら、これらの版画を飽きることなく眺めていたと証言されている。無意識のうちに「余白」や「間」を重んじる日本の美意識、シンプルでエレガントな感覚を吸収していったと考えられている。
Q. 「新版画」とは具体的にどのような芸術作品なのだろうか?
「新版画」は浮世絵と対照的な性質を持つ。浮世絵が絵師、彫師、摺師による完全な分業制であったのに対し、新版画は絵師が制作意図を細かく伝え、彫師や摺師と共同作業で高い芸術性を追求する。一人の絵師のクリエイティビティが最終成果物まで貫徹されるのだ。
手間がかかるため生産数が少なく、希少価値が高いのも特徴である。ジョブズはこの「絵師が自己表現できる」という制作プロセスに深く共感し、コンピューターで誰もが自由に創造できるというMacintoshのコンセプトを重ね合わせた。
Q. ジョブズが日本文化に対して見せた深い洞察力はどのように形成されたのか?
ジョブズの審美眼は非常に鋭く、銀座の画廊では川瀬巴水などの傑作や希少な関東大震災前の作品を的確に収集した。専門家が「画集が頭に入っているようだった」と評するほど、彼のセンスは確かだった。

さらに、京都の陶芸家・釈永行雄に特注した皿の逸話は有名だ。彼は従来の角皿を「もっと大胆に丸く」するよう指示し、この「丸みを帯びた四角」の形状は、後にApple製品の特徴的なデザインへと繋がる。彼は陶芸家を1時間も質問攻めにし、土の選び方、焼成温度など、制作の根源とプロセスを徹底的に探ろうとした。彼の探求心は、表層的な美だけでなく、その裏にある哲学や技術にも深く及んだのだ。
Q. Apple製品のデザインには日本文化の価値観がどのように反映されているのか?
ジョブズの親友ビル・フェルナンデスや、元CEOジョン・スカリーは、新版画からジョブズが吸収した「シンプルさ、エレガンス、美しさ、バランス」といった美意識が、20年の時を経てApple製品に確実に反映されていったと証言する。

ジョブズは日本の「職人」が一生をかけて一つの道を極める生き方に深く感銘を受け、そのクラフトマンシップをテクノロジー製品の開発に応用しようと常に考えていた。「日本を見て、そこから学ぶ」ことは彼の人生において一貫した姿勢であり、和食、美術、職人の技といった要素が、彼の人生とAppleという企業そのものを形作る重要な基盤となった。
Q. ジョブズが亡くなる直前にも日本を訪れたのはなぜだろうか?
2010年7月、死の約1年前に、ジョブズは家族と共に京都を極秘訪問した。彼にとって京都は「本物がある」特別な場所であり、長く受け継がれる歴史の中で、目立たない細部にまでこだわり抜かれた建築や工芸品に、自身の製品哲学と通じる「本質」を見出していたのだ。
滞在中、彼はある寿司店でサインを求められ「All good things」と記した。これは「良いことにも必ず終わりがある」という諺の一部であり、彼が自らの終わりを静かに受け入れていたことを示唆する。家庭でも常に京都の素晴らしさを語っており、彼の子供たちも13歳になった時の旅行先として「京都に行きたい」と熱望したという。彼の日本文化への愛は、死の直前まで変わらず、家族にも深く伝わっていた。