
TSMCの最先端技術流出。事件の真相と日本不信
台湾TSMCの最先端2nm技術流出事件の真相と波紋
台湾の半導体大手TSMCの営業秘密が東京エレクトロンの元社員によって不正に取得された疑いがあり、台湾では大きなニュースになっている。日本では報道が少なく、「個人の問題」として軽視される傾向があるが、台湾側はかなり深刻に受け止めているようだ。今回の事件の背景や今後の展開について、経済ジャーナリストの杉本りうこ氏に聞いた。

Q. 台湾で大きく報じられている東京エレクトロン関連の技術流出事件とは何か
東京エレクトロンの元社員が台湾の半導体メーカーTSMCの最先端技術「2ナノメートル」製造プロセスに関する情報を不正に取得しようとした事件。台湾の捜査当局が3名を拘束し、出国禁止処分にした。この3人のうち1人は元TSMC社員で東京エレクトロン社員、残り2人はTSMC社員。彼らはテレワーク中、TSMCのイントラネットに接続し、スマートフォンで400枚以上の画像を撮影。短時間のログインとログアウトを繰り返すという巧妙な手口を使ったものの、不審な接続パターンからTSMCが発見し、告訴に至った。

この事件は台湾メディアが大々的に報じており、特に注目すべき点は国家安全法に基づく摘発であること。2022年に改正された同法は、国家の革新的技術の海外流出を防ぐことを目的としており、今回が同法適用による初の摘発案件となった。
Q. なぜこの事件は台湾で特に大きなニュースになっているのか
この事件が台湾で大きく報じられている理由は複数ある。まず、対象となった技術がTSMCの最先端「2ナノメートル」プロセスという、世界でも極めて限られた企業しか持たない技術であること。TSMCは同技術を用いた工場を台湾とアメリカに建設中で、2025年末から2027年にかけて量産開始予定の最重要技術だ。

次に、台湾では「シリコンシールド」という考え方がある。これは半導体産業、特にTSMCの先端技術が台湾の国家安全を守る「盾」になっているという認識だ。国交関係の少ない台湾にとって、半導体技術は国際社会から見捨てられないための保険とも言える存在である。
さらに、TSMCの技術的優位性は同社の驚異的な収益性にも直結している。TSMCの営業利益率は46%と驚異的な数字で、最先端技術が国の安全保障と経済的繁栄の両方を支えている。そのため、この技術の流出は国家的な危機と受け止められている。

Q. 流出対象の2ナノメートル技術はどれほど重要なものなのか
2ナノメートル技術は半導体製造における最先端中の最先端技術で、現在量産できる可能性があるのは世界でTSMC、Intel、Samsungの3社のみ。このうちIntelは2ナノメートル技術の開発を中止し、Samsungは開発を進めているものの、TSMCほど大規模な量産体制は整っていない。
TSMCは台湾の新竹と高雄、さらにアメリカのアリゾナに2ナノメートル製造工場を建設中で、2025年末から2027年にかけて量産開始予定。これは世界で最も先進的な半導体製造技術であり、AI用半導体などの製造に不可欠だ。
この技術の重要性は経済面でも顕著で、TSMCの売上高14.5兆円に対し営業利益は6.6兆円、利益率46%という驚異的な数字を実現している。これは最先端技術による圧倒的な競争優位性があるからこそ可能になっている。

Q. この事件と日本の半導体企業ラピダスとの関連性について台湾では何が言われているのか
台湾では、この技術流出がラピダスに関係しているのではないかという憶測が広がっている。台湾の経済メディアでは、「TSMCの従業員が情報を流出させたのはラピダスに渡すためではないか」という推測が報道されている。
この憶測が生まれる背景には複数の要因がある。第一に、ラピダスが2027年に2ナノメートル技術による量産を計画していること。第二に、ラピダス会長の東哲郎氏が元東京エレクトロンのトップであり、現東京エレクトロンCEOとの人的つながりがあること。
さらに、台湾の半導体専門家からすると、創業わずか2年のラピダスが中間段階を経ずに一気に2ナノメートル技術での量産を目指すことは常識的に「ありえない」と思われている。半導体技術は一歩一歩段階を踏んで発展するものであり、TSMCやIntel、Samsungも長い年月をかけて技術を進化させてきた。
Q. この事件に関連して日本の半導体政策に対する台湾の見方はどうなっているか
台湾では、日本の半導体政策に対して複雑な視線を向けている。一方では日本政府がTSMCの熊本工場誘致に尽力し、日台半導体協力を進めながら、他方では「TSMCに依存してはいけない」と主張する政治家がいることに疑問を抱いている。
特に、日本の政界で半導体政策に影響力を持つ自民党の甘利明氏がTSMCの熊本工場誘致に奔走しながら、日本語のメディアでは「TSMCに依存してはいけない」と発言していることに台湾側は違和感を覚えている。
台湾の見方では、日本は表面上は台湾との半導体協力を推進しながら、裏では台湾の技術を自国のものにしようとしているのではないかという疑念がある。今回の技術流出事件は、そうした疑念を強める材料になりかねない状況だ。

Q. 東京エレクトロンとラピダスの関係性はどうなのか、実際に技術流出の関係があるのか
公開情報では、東京エレクトロンとラピダスの間に今回の技術流出に関連する証拠は示されていない。また、経済的合理性の観点からも、東京エレクトロンがTSMCの技術をラピダスに渡す動機は見出しにくい。
東京エレクトロンにとってTSMCは売上の約20%を占める最大顧客であり、このような重要取引先の技術を不正に取得してライバルになりうる企業に渡すリスクを冒す理由は薄い。
ただし、人的なつながりとしては、ラピダス会長の東哲郎氏が元東京エレクトロンのトップであり、現東京エレクトロンCEOの川合正氏は東氏が選んだ後継者という関係がある。この人的つながりが憶測を呼ぶ一因になっている。

Q. 今回の事件が今後どのように展開する可能性があるのか
現在、台湾の報道によればTSMCは東京エレクトロンに対して何らかの賠償を求める方向で検討しているとされる。TSMCはすでに社内に研究開発担当幹部をトップとする調査チームを設置しており、徹底した追及姿勢を示している。
TSMCにとって、このような不正行為に対して厳格な対応を示すことは、将来的な技術流出を防ぐ抑止力にもなる。また、今回捜査の対象となった3人以外にも、関与者が合計9〜10人に上るという情報もあり、さらなる捜査の進展も予想される。
この事件の影響は、単に企業間の問題にとどまらず、日台関係や半導体産業のグローバル競争、さらには国家安全保障の問題にまで発展する可能性を秘めている。特に台湾側がこの問題を国家安全法の文脈で捉えている以上、単なる企業秘密漏洩以上の重大事として扱われることは間違いない。

Q. 今回の事件で注目すべき点は何か
今回の事件には3つの論点がある。第一に、捜査当局が起訴に至るかどうか。台湾では営業秘密の不正取得事件は多く摘発されているが、過去3年の起訴率は約3割にとどまる。これは証拠不足が主な理由だ。しかし今回は東京エレクトロンが捜査に全面的に協力していると言われており、証拠は従来の同種事件に比べて揃えやすいと考えられる。

また、起訴された場合の有罪判決率は約7割だ。時間的なタイムラインとしては、過去の実績ベースで約6か月、つまり来年1月頃には起訴するかどうかが明らかになるだろう。
Q. TSMCは東京エレクトロンに賠償を求めるのか
第二の論点は、TSMCが東京エレクトロンに賠償や何らかの責任を求めるかどうかだ。これは日本と台湾の間で大きな温度差がある。日本の半導体業界では「東京エレクトロンの社員が個人でやったことであり、東京エレクトロンはむしろ被害者ではないか」という見方が多い。これが日本での報道の少なさにもつながっているだろう。
一方、台湾側ではTSMCが東京エレクトロンに何らかの賠償を求める方向であるという報道が出ている。これは憶測ではなく、信頼できる媒体が取材に基づいて報じている内容だ。

東京エレクトロンの組織的関与はまだ明らかになっていないが、最低限、従業員の管理不行き届きという使用者責任はあるだろう。特に今回摘発された3人のうち1人が元TSMC社員の東京エレクトロン社員(現在は解雇済み)で、その上司も元TSMC社員の東京エレクトロン社員という点は注目される。
Q. TSMCが厳しい姿勢を取る理由は何か
TSMCが厳しい姿勢を取るのは感情論ではなく、再発を絶対に防ぐための「防御戦」だ。これをきっちり追求しなければ、さらに巧妙な手法で情報を盗もうとする存在が出現するというのがTSMCの経験値に基づく判断だ。
台湾は中国からの半導体技術の流出・不正取得に常にさらされており、その主要ターゲットはTSMCだ。過去には幹部のヘッドハントによって半導体技術が韓国のサムスン電子や中国のSMICに流れたこともある。こうしたヘッドハントは法的に事実上できなくなったため、今回のような新しい手法で情報を得ようとする動きが出てきた。
Q. ビジネス上の関係はどうなるのか
TSMCにとって東京エレクトロンは7ナノ以降の先端生産ラインにおいて、塗布装置などをほぼ100%依存している存在だ。つまり、どちらが欠かせない存在かというと、TSMCにとっての東京エレクトロンの方が欠かせない。関係がこじれたら困るのはTSMCのほうだともいえる。
それにもかかわらずTSMCがこの件を調査して検察に告訴したということは、徹底して追求する姿勢を示しているといえる。
賠償の内容としては具体的な金額は伝えられていないが、単なる民事訴訟上の損害賠償請求とは少し異なるようだ。今後、東京エレクトロンが装置を販売する際に大幅な値引きをするという形になるかもしれない。TSMCは元々価格交渉が厳しい相手だが、それがさらに厳しくなる可能性がある。
さらに、東京エレクトロンのトップに責任を取ってほしいという声もTSMC内部にあると言われている。9月上旬に台湾で開催される半導体関連イベントに東京エレクトロンの川井社長が参加し、TSMCのC.C.ウェイCEO(魏哲家)と会談する予定だ。この場でどのような話し合いが行われるかが注目される。
Q. 日台関係への影響はあるか
第三の論点は、この問題が日台関係に影響を与えるかどうかだ。TSMCは日本に熊本工場を建設しており、第2工場の建設も予定されている。しかし最近、第2工場の着工が延期されるというニュースが出た。
これが今回の事件と関連しているという見方もあるが、TSMCの幹部で現在台湾政府の大臣級ポストにある人物は「この事件は対日投資には影響しない」と述べている。

延期の理由としては、交通渋滞などのインフラ問題や、アメリカでの投資を優先させる必要があるという見方もある。しかし本質的な問題は需要不足ではないかと思われる。熊本工場は比較的古い世代の半導体を生産しており、第2工場は7ナノの先端ラインを予定しているが、日本にそうした先端半導体の需要があるかという疑問がある。
TSMCの創業者モリス・チャン氏は2006年にすでに「日本はファブレス企業の育成に力を入れるべきだ」と提言していた。AppleやNVIDIAのようなファブレス企業がTSMCの成長を支えているが、日本にはそうした企業が育っていない。日本の主要産業である自動車も、必ずしも最先端の半導体を必要としていない。

Q. 日本側はどう対応すべきか
日本側の「個人の問題なので大げさに考えなくていい」という認識は甘い。台湾側の深刻度をそのまま受け止め、開示すべきものは開示し、謝罪すべきものは謝罪する必要がある。
台湾では元中日大使に相当する人物がSNSで「冷静になるべきだ」と述べたところ、厳しい批判を受けたという。民意としては徹底的に事態を解明すべきだという声が強い。
また、TSMC内部には研究開発担当幹部をトップとする調査チームが発足しており、具体的な損害額を算定しているとされる。
東京エレクトロンの8月7日の声明も「不十分」との見方が台湾では出ている。声明には「顧客の利益を守る企業である」という文言がなく、TSMCの明確な姿勢との違いが指摘されている。
今回の問題で日台の半導体協力関係に疑念が生じることは避けたい。特に東京エレクトロンの法人としての関与を示す証拠が出てきた場合には、信頼関係に大きな影響が出る可能性がある。9月の会談結果を注視する必要があるだろう。
