
前編:日本人の給料は本当に上がるのか?
賃上げ待ったなしの日本経済――「給料を上げない企業は淘汰される」発言の真意とは?
日本経済は今、歴史的な転換点を迎えている。長きにわたるデフレ経済から脱却し、持続的な賃上げを実現することは、喫緊の課題であるだけでなく、企業の存続と国家の未来を左右する重要テーマとして議論されている。
経済同友会代表幹事の新浪剛史氏と経済学者の成田裕介氏は、人手不足とインフレが常態化する中で、企業経営に求められる意識変革や、若年層への重点的な賃金配分、国際水準からかけ離れた日本の給与実態など、多角的な視点から日本の賃金問題に鋭く切り込んだ。本記事では、彼らの議論を基に、日本の賃上げをめぐる現状と課題、そして未来への処方箋を探る。
Q. なぜ今、賃上げは企業の必須課題となっているのか?
人手不足とインフレの深刻化は、企業経営における賃上げの必然性を決定的にしている。新浪氏は、もはや企業にとって賃上げは「上がらざるを得ない」状況だと断言した。優秀な人材を獲得し、また既存の従業員が離職しないよう引き留めるには、魅力的な賃金水準の提示が不可欠だという。
デフレ時代においてはコストカットが至上命題であったが、現在は状況が一変している。賃金を上げない企業は人材が確保できず、結果として事業の永続性が危ぶまれる時代が到来したのである。企業は、賃上げを単なるコストではなく、持続的成長のための「人への投資」と捉えなければならない。
Q. 中小企業の賃上げを促進するために、大企業や政府は何をすべきか?
日本の労働者の多くが中小企業で働いており、その賃上げは日本経済全体の底上げに不可欠である。しかし、中小企業の多くはギリギリの経営状態であり、賃上げの余力がないのが実情だ。この根本原因は、大企業からの人件費上昇分が価格に転嫁されていない点にある。
経済同友会をはじめとする経済団体は、大企業が適正な価格転嫁を行うよう働きかけている。加えて、公正取引委員会による厳格なチェックも有効な手段だ。実際、公取が名指しで不適切な取引慣行を指摘した事例は、大手企業のレピュテーションリスクとなり、是正への強い圧力を生んでいる。この両輪で中小企業が賃上げできる環境を整備することが求められる。
Q. 賃上げをしない企業は市場から淘汰されてしまうのか?
新浪氏は、賃上げに背を向ける企業は「淘汰されるべき」だとの考えを示す。この発言はセンセーショナルであったが、その真意は、人材への投資を怠る経営判断を下す企業は、市場原理によって自然と生き残れなくなるという冷徹な現実を指摘するものだ。優秀な人材は賃金の高い成長企業へ流れていき、人材不足で事業を継続できない企業は遅かれ早かれ市場から退出することになる。
過去のコロナ禍における補助金政策が、本来なら退出すべき企業を温存させてしまった側面がある。しかし今後は、淘汰を通じて労働力が生産性の高い企業へと移動する健全な「新陳代謝」が不可欠であり、これが日本経済再生のためのプロセスであるという強いメッセージが込められている。
Q. デフレマインドを転換し、具体的な賃上げ目標と世代間の配分をどう設定すべきか?
日本経済の新しいノルム(社会的通念)として、「給与は毎年上がるもの」という認識を確立することが重要である。この新しい常識の下、賃上げの具体的な目標値は物価上昇率を超える「3%台」が目安となる。日銀の物価上昇率予測が2.8%であることを踏まえると、労働者の生活水準を向上させるためには3%以上の賃上げが最低限必要だ。企業はこれを前提として経営計画を立てるべきである。
賃上げの恩恵を最大化するには、その配分も鍵を握る。日本社会の高齢化が進む中で、将来の成長を担う20代から40代の若手・中堅層に重点的に資源を配分するべきだ。新浪氏は、退職金制度を見直し、給与を前払い化するなど、最も働き盛りである世代の所得を増やす仕組みへの転換が経済活性化に繋がると提案した。
Q. 国際的に見て、日本の賃金水準はどの位置にあるのか、その現状からどう脱却すべきか?
日本におけるサラリーマンの成功の基準とされる「年収1000万円」は、国際水準から見れば「驚くほど低い」と成田氏は指摘した。米国の一流大学を卒業した新卒が既にそれを超える初任給を得る現状と比較すると、日本の賃金ギャップは極めて大きい。
この国際的な格差は、「安いニッポン」という現実を浮き彫りにしている。長年続いたデフレマインドが、コスト抑制を最優先する企業の体質を作り上げてしまった結果だ。しかし、この厳しい現実は同時に、日本が変革せざるを得ない状況にあることを明確に示しており、デフレからの脱却と国際競争力回復への大きな起爆剤になり得る。社会全体で「賃上げが当たり前」という通念へと変革を進めることで、この現状からの脱却が可能になる。
Q. 日本経済の新陳代謝を促すために、経営者の報酬体系やキャリアデザインの考え方をどう変えるべきか?
日本の経営者の報酬は国際的に見て低く、キャリアの最高到達点としては「悲しくなるぐらい低い」という声もある。この報酬水準が、経営者がリスクを取る意欲を削ぎ、現在の地位にしがみつく原因となっている側面がある。結果として、経済界や政界で経営層の高齢化が進み、新陳代謝が滞る一因になっているという見方も存在する。
経済の新陳代謝を促すためには、経営者の報酬体系の適正化も不可欠だ。さらに、個人においては「45歳定年制」発言の真意に触れられたように、キャリアを途中で終えるという意味ではなく、45歳前後で一度立ち止まり、人生100年時代を見据えて自らのキャリアデザインを主体的に考える時期であるとの問題提起があった。この意識を持つことで、人材の流動性が高まり、個人と企業の双方が成長する機会を創出する。企業は従業員を「コスト」ではなく、企業の長期的な成長を支える「資産」と見なし、人材投資を惜しまないコミットメントが求められる。これは単なる給与アップに留まらず、企業がどのようなパーパス(存在意義)を持ち、社会に貢献するのかという、より本質的な問いかけでもある。これらの変革が、日本経済を停滞から解き放ち、新たな成長サイクルへと導く鍵となるであろう。
