
「世界の山ちゃん」継いだ元専業主婦【山本久美】
専業主婦から年商81億円企業トップへ 「世界の山ちゃん」をV字回復させた山本久美氏の「ケチケチ戦法」
16年間専業主婦として3人の子どもを育てていた女性が、突然、年商75億円規模の外食企業のトップに立つことになったらどうなるか?想像しにくいが、それが「世界の山ちゃん」を展開するエスワイフード代表取締役の山本久美氏の経験だ。
夫の急逝により経営のバトンを託された彼女は、いかにしてカリスマ創業者が築き上げた組織を引き継ぎ、V字回復、そして過去最高売上へと導いたのか?そこには、誰もが予想しなかった独自の「ケチケチ戦法」と、温かくも毅然としたチームマネジメントがあった。

Q. 16年の専業主婦生活から突然、年商75億円企業のトップを継承した時の心境は?
2016年、夫であり創業者の山本重雄氏が急逝したことにより、山本久美氏は突然「世界の山ちゃん」のトップに就任した。それはまさに「青天の霹靂」だったと彼女は当時を振り返る。

夫が生前、会社のM&Aについて「うちのような少し変わった会社がM&Aされると、会社の良さが失われ、従業員が辞めてしまうかもしれない」と話していた。その言葉から、久美氏はM&Aという選択肢を外した。
夫の急逝当時、59歳であった夫の後任が決まっていなかった。そのため、優秀な外部人材を招き入れるという選択肢もあったものの、それがかえって「世界の山ちゃん」独自の文化や価値を損なう可能性も危惧したという。
さまざまな状況を考慮した結果、久美氏は「次の後継者が見つかるまでの“中継ぎ”」という暫定的な覚悟で、トップに立つことを決断した。この時点では、自分が永続的に経営の座にいることは全く想定していなかったという。
Q. 「社長」ではなく「代表取締役」と名乗ることにこだわった理由は何?
就任にあたり、山本氏は「社長」ではなく「代表取締役」という肩書を選択した。このこだわりには、夫が抱いていた経営者像と、自身の現実との間で葛藤があったと語る。
夫は生前「経営者は24時間会社のことを考え、会社に時間を費やすべき」という考えを持っていた。しかし、当時の久美氏には、まだ小さかった子どもたち(一番下の子どもは小学2年生)の面倒を見る責任があったため、夫のいう「社長」の条件を満たすことは不可能だと感じたという。
自身で創業したわけではなく、夫が築き上げた組織に途中から加わったという謙虚な気持ちも、「社長」を名乗らなかった理由の一つだ。だが、経営に携わってからの久美氏は、仕事と家庭の両立に必死だった。
子どもを学童に預けたまま、お迎えを忘れてしまうこともあった。一つのことにのめり込む不器用な性格だと語る彼女は、経営においてもその没頭ぶりを発揮し、文字通り奔走した。
Q. 創業者の山本重雄氏はどのような経営者だった?彼のユニークな経営哲学を教えてほしい。
「世界の山ちゃん」の創業者、山本重雄氏は、型にはまらない独自の経営感覚を持った人物だった。彼の発想力や行動力が、数々の「世界の山ちゃん」らしさを生み出した。

「世界の山ちゃん」は1981年、名古屋で4坪の「串カツ焼き鳥 山ちゃん」として始まった。当初の手羽先は、他の人気店の味を真似しようとしてうまくいかず、試行錯誤の末に胡椒を効かせた現在のスタイルが生まれたという。失敗をオリジナリティに変える柔軟な発想力は、まさに創業者の才能と言えよう。
創業者は計算が苦手だったため、初期は全ての商品を1本50円に統一していた。その「どんぶり勘定」が生んだシンプルな価格設定は、客にもわかりやすく、支持を得た。会計は客自身が食べた串の本数を申告するという方式で、たまに誤魔化す客もいたようだが、それでも許容するおおらかさがあった。
現在の店名「世界の山ちゃん」も、元々は従業員が電話応対の際にふざけて言った冗談を、創業者が「それいいね」と採用したものだという。また、一度見たら忘れられない特徴的なキャラクター「鳥男」は、創業者の似顔絵だ。当時は「気持ち悪い」と言われることもあったが、自分の顔と名前を覚えてもらうためには最善と考え、名刺から看板へと採用していった。世の中の流行を敏感に察知し、自らのアイデアを柔軟に取り入れる感覚は、まさに天才的だった。
「世界の山ちゃん」の経営理念は「立派な変人たれ」だ。「変」には「ユニークで面白い」ということに加え、「常に変化し続ける」という意味が込められている。創業者はこの理念を自ら体現していた。社員の士気が落ちていると感じた時期には、自身がアフロを被って会議に参加し、部長全員にもアフロ着用を命じたという。まず自分が面白がることで、周りを巻き込み、場を明るくする天性のカリスマ性を持っていた。
Q. 経営の素人がV字回復を達成した「ケチケチ戦法」とは具体的にどのようなものだったのか?
経営経験のなかった山本氏は、まず自分にできることから着手した。それは、売上を増やすことよりも「利益を残す」ことに注力することであった。
彼女が編み出したのは、専業主婦時代の経験に基づいた「ケチケチ戦法」だ。水道光熱費や食材ロスといった、日々の運営における「無駄」を徹底的に排除する取り組みを全社的に行った。忙しさから水が出しっぱなしになっていたり、必要ないのに冷房がつけっぱなしだったりする状況を改めさせ、無駄遣いをしないよう繰り返し訴えかけた。
当時約70店舗を展開していたため、「70店舗が365日節約すれば、それがそのまま大きな利益に繋がる」と具体的に数字を示しながら従業員に説明した。創業者が急逝し、不安を抱える従業員も少なくなかった中で、彼女のこの地道な取り組みは、「会社は会長がいなくても大丈夫だ」という自信を社員にもたらした。
この結果、山本氏の就任初年度は売上自体は前年とほぼ同じであったが、本部の経費削減も相まって、利益は例年以上に確保することができたという。創業者は後々の投資を見据えて経費を使う傾向があったが、山本氏はまず足元を固める戦略を選択し、短期間での利益改善を成功させたのである。
Q. 幹部との衝突を経て、どのようにして社内の信頼関係を構築し、組織改革を進めたのか?
経営の知識が全くなかった山本氏は、まず会社を知るためにあらゆる会議やミーティングに参加し、分からないことは立場を問わず誰にでも尋ねるという姿勢を貫いた。
就任から1年以上経った頃、幹部たちとの間に意見の食い違いが生じた。山本氏がなかなか意思決定を下せないことに対し、幹部側は表面的な情報しか伝えず「どうせ素人には分からないだろう」という意識が透けて見えた。これに対し山本氏は「判断できないのは情報が少ないからだ。分かるまで説明してほしい」と、本音で彼らと向き合った。

この本音の対話によって、幹部側も情報をより丁寧に提供するようになり、山本氏と幹部との間に新たな信頼関係が芽生えたという。さらに山本氏は、組織体制の改革にも着手した。創業者の時代は、幹部が複数の部署を兼任する「兼任制」が主流だったが、これは責任の所在が曖昧になりがちだった。
久美氏はこの兼任制を廃止し、部署ごとの責任と権限を明確にする「縦割り」組織へと変更した。自分が全ての責任を負うカリスマ経営者ではないからこそ、各部署の専門家を「信じて任せる」権限移譲を進めたのだ。時には仕事の進捗が遅い幹部に対し「まだ?」と催促することもあるが、これも小学校教諭時代に生徒の宿題を促すような感覚だという。
Q. 前職の経験が現在の経営にどのように活きているのか?
山本氏は中学時代にバスケットボールで全国優勝を経験し、小学校教諭時代にはミニバスケットボールの監督として何度もチームを全国優勝に導いている。彼女はこれらの「チームスポーツ」の経験を、現在の経営に活かしているという。
創業者はカリスマ的なリーダーシップで社員を巻き込む「トップダウン」型の経営だった。しかし山本氏は、個人に依存するのではなく、チーム全体が機能する組織づくりを目指している。彼女は「良いチームを作るには、リーダー(店長)がメンバー(部下)に愛情を持って接することが不可欠である」という考えを持ち、各店がそれぞれの特色を生かしたチームとなるよう働きかける。
また、彼女は「脱創業者」を明確な戦略として打ち立てている。創業者時代に禁止されていた「手羽先の外部持ち出し」など、タブーとされていたことについても、臆することなく改革を進める。「もし会長が生きていたらどう判断したか」を常に自問自答しつつ、「変化し続ける」という創業者の精神に立ち返り、時代に合わせた新たな挑戦を続けているのだ。
