PIVOT CAREER
30代の人生戦略 突然のリストラから起業への理由
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2026年8月20日

慶應から東大院へ進み、企業へ就職するも突然のリストラに直面。その直後、能登半島地震の被災地へ飛び込み、起業を果たした波乱万丈なキャリアの加藤氏に何を基準にキャリアの選択をしたのかを深掘る。 <ゲスト> 加藤愛梨|災害リスクコミュニケーター/株式会社Mutubi代表 慶應義塾大学(SFC)から東京大...
慶應・東大卒からリストラ、そして能登で起業。
激動の人生を歩む「災害リスクコミュニケーター」が見据える未来
慶應義塾大学から東京大学大学院へ進学。誰もが羨むエリートコースを歩んだかと思えば、その後にまさかのリストラを経験した。そして直後に能登半島地震に直面すると、彼女は躊躇なく被災地へ飛び込み、わずか4ヶ月で起業するという驚くべき決断を下した。
彼女の名は加藤愛梨(株式会社Mutubi 代表取締役)。「災害リスクコミュニケーター」として、波乱に満ちた道を自ら切り開き、社会に貢献するその原動力とは一体何なのだろうか。 本記事では、彼女を突き動かす衝動、キャリアの選択基準、そして被災地から見据える未来のビジョンについて、その胸の内に迫る。

Q. 慶應義塾大学、東京大学大学院という輝かしい学歴から、なぜ能登の被災地での起業に至ったのだろうか?
加藤氏は、慶應義塾大学から東京大学大学院に進学し、もともと災害の研究者を志していた。しかし、卒業後は防災系のNPOへ就職し、コロナ禍での経営再建のため事務局長を務める経験をした。
その後、UUUMの創業者との偶然の出会いから、ITスタートアップ企業へ転職。ここではブロックチェーンやNFT技術を活用し、防災における新たな課題解決を目指した。しかし、事業は経営難に直面し、能登半島地震発生のわずか1週間前のクリスマスに、リストラという思いがけない事態に直面することになる。
絶望の淵にあったお正月、横浜の実家で地震の報せを受けた加藤氏は、被害規模を瞬時に予測し、思考する間もなく体が動いたという。具体的な仕事の計画もない「ノープラン」な状況で、能登への道をたどったのが始まりだ。現地で活動を続ける中で、「この地で活動をやり続ける覚悟」を形にするため、株式会社Mutubiの創業に至ったと語る。

Q. 「災害リスクコミュニケーター」という独自の肩書きは、具体的にどのような仕事なのだろうか?
「災害リスクコミュニケーター」とは、加藤氏が自ら創設した肩書きである。日本ではどこにいても大きな災害のリスクがあり、災害を経験していない地域(未災地)の人々が備えるには、過去の被災地の経験から学ぶことが不可欠と加藤氏は説く。
しかし、被災の状況や対策に絶対の答えはなく、伝達も容易ではない。そこで彼女は、「未災地」と「被災地」の間に入り、橋渡し役となる「コミュニケーター」として活動している。
能登では、地震発生直後から物資支援、情報の収集・発信、炊き出しといったボランティア活動を行った。特に、復旧・復興の過程で人々が直面する現実を記録するため、延べ600人もの被災者の声や様子を映像で捉え、「MuTube -被災地と未災地をよくするメディア-」の編集長として社会に発信し続けている。また、人口減少や震災により失われた地域の機能を補うため、自身の特技であるダンスを子供たちに教えるなど、既存の枠にとらわれない多角的な支援を展開している。
Q. なぜ、リストラ直後に能登へ向かい、ノープランで起業したのか?
加藤氏は、自分自身を「判断も行動も遅い人間」と自己分析している。しかし、唯一「動かざるを得ない瞬間」として災害を挙げる。それは、目の前で多くの命が失われ、その後に助かるはずだった命までもが失われていく状況を目撃し、その課題を解決することに抗えない衝動を感じるためだという。
大学入学は東日本大震災の年、大学院入学は熊本地震の年。常に大規模な災害が自身のキャリアと密接に関わってきた。今回のリストラ直後の能登半島地震も、まさにその運命的なタイミングであった。自身が苦しんでいる時であっても、「災害における人命に関わる課題」が存在する限り、使命感が彼女を突き動かした。
能登の被災地では、知事による「来ないでください」という要請の影響もあり、震災から数カ月が経過しても人がほとんどいないという異様な光景が広がっていた。行政やボランティアが後退していく中で、過疎の地域にさらに誰も寄り付かなくなる未来に恐怖を感じた加藤氏は、自身がこの地で活動を続ける「覚悟」を証明する手段として、ノープランで会社設立に踏み切ったと説明する。それは、周囲の視線よりも、自分がこの地から「逃げない」という強い意志の表明であった。
Q. 能登での過酷な生活を経て、加藤氏は現地でどのような経験をし、何を見出したのだろうか?
能登へ赴いた最初の1年間、加藤氏には住む家がなかった。車中泊、テント泊、そして廃校での生活など、その日ごとに寝る場所を探す「その日暮らし」が続いたという。2年目には石川県輪島市へ移住し、能登空港近くの仮設コンテナへ住民票を移して本格的な生活を開始した。
しかし、雪国での生活は過酷だった。1メートルを超える積雪に見舞われ、水道管や給湯器の凍結によりお湯や水が出なくなることが日常茶飯事であったという。
防災を専門として学び研究してきた彼女も、この現地の暮らしを通じて初めて知ることが多く、当事者として経験することで、被災地のリアルな困り事に対する「解像度」が格段に高まったと語る。文献や情報だけでは決して理解できない、生きた教訓を自らの体で学び取ったその経験こそが、今、彼女が被災地から伝えられることの核心をなしている。

Q. 波乱万丈なキャリア選択をする中で、加藤氏が最も大切にしてきた価値観とは何だろうか?
加藤氏は、これまでのキャリアを振り返り、常に自然災害が自身の選択の機会を広げてきたと述懐する。災害は多くの人にとって損失をもたらすものである一方、彼女にとっては「新しい選択肢を与えてくれる機会」でもあったという。
東京での経済的な安定やキャリアを捨てることに一切の迷いはなかったのかという問いに対し、彼女は「被災地では、わずか1日で家族や仕事、家といった全てを失った人々が多数存在する。それに比べれば、自分が何かを捨てたとか失ったという感覚は一切ない」と言い切る。
キャリア選択において彼女が最も重要視しているのは、「自分自身の人生に心から納得感を持っているか」という一点である。他者との比較や世間的な評価ではなく、自らが下した決断が自身の心を満たすものであるかを基準に、常に進むべき道を選んできたと語る。

Q. 自己資金での活動から資金調達に成功し、今どのような事業構想を描いているのだろうか?
起業から2年間は自己資金をすり減らし、ほぼボランティアとして活動してきた。目の前の課題が山積する中で、被災地が社会から一方的に助けてもらうだけでなく、社会に還元できる方法を模索し続けた。
その結果、彼女の活動は「青年版国民栄誉賞(JCI JAPAN TOYP)」で準グランプリを受賞するなど社会的に高く評価され、さらにビジネスコンテストである寺田倉庫「Creation Camp TENNOZ」を勝ち抜き、ついに資金調達に成功したと報告する。
現在、彼女が注力するのは「人材育成」事業だ。高齢化、過疎化という日本の未来の課題が凝縮された「課題先進地」である能登に、全国から多くの若者や大学生が集まり、活躍している現実に着目した。 災害後のボランティア期間が終わり「役割迷子」に陥りがちな若者たちのために、能登での実体験で培われる「地力」を可視化する独自の評価軸を大学と共同開発している。これを活用し、能登を、採用選考では測れない真の能力を診断・育成できる実証の場として発展させていくビジョンを描いている。
Q. これからの30代を、加藤氏はどのようなキャリアパスとビジョンで描いているのか?
加藤氏は自身のキャリアを次のように振り返る。10代は与えられた環境を全うし、20代で「防災」という自身の核となる軸を見つけた。そして30代は、その軸を「自分の人生をかけてでも挑戦したい」と挑むステージだと位置づける。
かつて、防災を仕事にしたいと願っても、食べていくための選択肢がないと苦しんだ経験があるという。しかし、近年、日本では災害が頻発し、防災への関心を持つ若者は増加している。
彼女の最大の目標は、熱い思いを持つ若者たちが、防災や被災地支援という活動を通じて、やりがいを感じながら安定した生活を送れるキャリアの「受け皿」を自社で創出することだ。ボランティアで終わらず、専門職として自立し、継続的に社会貢献ができるような道を切り拓き、次世代に希望ある未来を繋げたいと強く願っている。
