THE DEEP SHOW
【東野幸治vs宮内義彦】激動の時代を生き抜いた成功法則とは
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2026年5月22日

東野幸治が90歳の宮内義彦氏(元オリックス社長)に忖度なく切り込む。「大人は信用できない」と感じた敗戦体験、バブル崩壊をいち早く察知した嗅覚、アメリカ留学と就職活動。激動の時代を生き抜いた経営者の成功法則とは。 <MC> 東野幸治|お笑いタレント 加藤シルビア|アシスタント <ゲスト> 宮内義彦...
オリックスを築いた宮内義彦氏の経営哲学とバブル危機を乗り越えた先見の明
宮内義彦氏の90年の生涯は、激動の時代を駆け抜けたビジネスリーダーの知恵と洞察に満ちている。戦争で培われた「大人は信用できない」という独自の価値観、海外で体得した金融の知識、そしてバブル経済の熱狂の中で冷静さを保ち会社を危機から救った先見の明。
本記事では、オリックスを巨大企業に育て上げた同氏の波乱に富んだ人生と、その根底に流れる哲学を紐解く。

Q. 戦争体験が経営哲学にどのような影響を与えましたか?
10歳で終戦を迎えた宮内氏は、軍国少年から一夜にして価値観が逆転する体験をした。「天皇陛下万歳」と教えられた世界が「マッカーサー万歳」に変わる中で、大人への不信感が芽生えた。特に印象的だったのは、学校で軍国主義的な内容を記載した教科書を自らの手で墨で塗りつぶさせられたことだ。昨日までの「正しいこと」が容易く否定される現実に直面し、子供心に強い衝撃を受けた。
この経験は「大人は信用できない。自分の頭で物事の本質を見極めなければならない」という生涯にわたる信念を形成した。常識や権威を疑い、常に客観的な視点で物事を捉え、本質を追求するこの姿勢が、その後の彼の経営スタイルの原点となっている。
Q. どのようにして異国の地でMBAを取得しましたか?
当時の日本は外貨持ち出しが厳しく制限されており、庶民が海外へ留学することは困難だった。しかし、貿易関係の仕事をしていた父親のアメリカでの人脈を頼ることで、宮内氏は貨物船で2週間の船旅を経て渡米する貴重な機会を得る。高額な飛行機代を賄えなかったため、船中は常に船酔いに苦しみながらも、到着までの時間を勉学に充てたという。

渡米先で宮内氏を待ち受けていたのは、成績が悪ければ即退学という非常に厳しいアメリカの大学院の環境だった。日中必死に学業に励み、週末もほとんど勉強に費やす中で、生き残るために精神力と集中力を磨いた。この過酷な経験は、その後のビジネスで激しい競争を勝ち抜くための強靭な精神的な土台を築き上げた。
Q. 高額な給与を提示した外資系企業ではなく、日本の会社を選んだのはなぜですか?
MBA取得後、当時の日本の相場の倍額の給与を提示したIBMからのオファーを宮内氏は断っている。その背景には、戦争を経験し敗戦後の混乱を肌で感じたからこそ生まれた「日本のために働きたい」という強い思いがあった。目先の利益よりも長期的な使命感を優先する姿勢がうかがえる。
しかし、当時の日本企業ではMBAの価値はまだ十分に理解されておらず、採用された日綿実業(現:双日)では、「卒業年次から2年遅れている」として低い給与から始まった。望まない調査部に配属され、一度は退職を考えるも、父の「石の上にも三年」という言葉を胸に業務に耐えた。結果的にこの経験と英語力が、社内で立ち上がる新規事業(リース業)のアメリカでの研修という転機を掴むことに繋がった。
Q. オリックス創業におけるリース業の本質とは何でしたか?
日綿実業でリース業の立ち上げに関わった宮内氏は、再度リースについて学ぶため3ヶ月間の米国研修へ派遣された。そこで彼が学んだリース業の本質は、単純なモノの貸し借りを行うレンタル業とは異なり、「顧客の信用力に資金を投下する金融業」であった。顧客のために設備を購入し、賃料という形で元本と利息を回収するため、借り手の信用度が極めて重要になる。

当時、金融知識がほぼゼロの状態だったが、3ヶ月間の集中研修で得た知見は、リースに関する情報が不足していた日本では最高の権威となり、設立初日に年長の上司のリースに対する誤解を臆さずに指摘したエピソードは有名である。米国で得た最新の知識が、日本の新しい金融事業であるオリックス創業の大きな武器となった。
Q. リース業の成功後、オリックスはどのように次の成長戦略を描きましたか?
オリックスが手掛けたリース事業は目覚ましい成功を収め、日本では未開拓だった市場において瞬く間に急成長した。しかし、その成功は長くは続かず、多くの商社や銀行がこぞって子会社を設立し、リース市場に参入してきた。これにより価格競争が激化し、当初の先行者利益は徐々に薄れていった。
宮内氏は「成功した事業は必ず真似される」という現実を肌で感じ、リース事業一本足打法からの脱却を決断。まだ黎明期だった1970年代に、国内での「多角化戦略」と、リース業が根付いていなかったアジアへの「海外展開」という二大戦略を推し進めた。常に市場の変化を読み、先行者利益を求め、次の成長分野へシフトするその先見の明が、その後のオリックスの多角的な事業展開と国際的成長の礎となった。
Q. バブル崩壊の危機をどのように乗り越えましたか?
1980年に社長に就任した宮内氏は、日本経済が狂乱のバブル期へと向かう中で会社を牽引することになる。不動産や株価が異常な高騰を続ける中、競合他社が「頭金ゼロ」「99年ローン」といった異例な金融商品を展開していることに、宮内氏は危機感を抱いた。

市場全体が熱狂に包まれ、多くの企業が好景気に浮かれる中、宮内氏は冷静に客観的なデータから市場の異常を読み解いた。そして周囲の反対意見や「社長は頭がおかしい」という社内の声を押し切り、不動産事業の縮小という「逆張り」の決断を下した。社員が退職していく中でも信念を貫いたこの孤独な判断が、結果的にバブル崩壊後の会社を破滅的なダメージから救った。オリックスは「重傷を負いながらも死ななかった」と宮内氏は当時を振り返る。致命傷を避けるリスク管理と長期的な視点こそが、会社を存続させる鍵となることを示す好例だ。