PIVOT TALK BUSINESS
世界のスパイが実践する「人の心を掴む技術」
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2025年9月10日

世界のスパイたちは、人の心を掴むために、どんな技術を駆使しているのか?その技術をビジネスパーソンはどう生かせるのか?スパイの世界に詳しい、元公安部捜査官の稲村悠氏に聞いた。 <ゲスト> 稲村悠|日本カウンターインテリジェンス協会 代表理事 1984年生まれ。大卒後、警視庁に入庁。刑事課を経て公安部...
スパイの心理戦術:人の心を掴む技術と日本のスパイ事情
「人間の心ほど弱いものはない」――スパイ活動において、技術的防御を破るより人間の心理的弱点を突く方が効率的という事実は、ビジネスから国家安全保障まで幅広い分野で重要な意味を持つ。日本カウンターインテリジェンス協会代表理事の稲村悠氏に、スパイの心理戦術と日本のスパイ事情について聞いた。

Q. 日本は「スパイ天国」と言われますが、実態はどうなのでしょうか?
スパイ天国という言葉が広まったきっかけは、冷戦時代のリヒャルト・ゾルゲの活動や、1970年代にレフチェンコという元KGB工作員が「日本では活動しやすかった」と発言したことに始まります。その後、利尻漁船事件などの大きな事件も相まって「スパイ天国」という認識が広がりました。
しかし実態はかなり誇張されています。例えばロシアのスパイであれば、ロシア大使館や通商代表部の職員の一部がその任務を担っていますが、非常に限られた人数です。中国も管理している工作員は少数で、むしろ在日中国人コミュニティ全体を情報収集のネットワークとして活用するスキームを持っています。
このような実態がある一方で、「中国人はみんなスパイだ」「北朝鮮のスパイが日本に潜伏してダムを破壊する計画がある」といった極端な言説が広がりやすい土壌があります。こうした認識は、声の大きい人々の発言がエコーチェンバー現象によって増幅され、社会に定着してしまう危険性があります。
Q. スパイ活動における情報収集の種類と、その中でも「ヒューミント」と呼ばれる人間を使った情報収集の重要性はどの程度ですか?
情報収集には大きく5つの手段があります:
1. オシント(OSINT):公開情報収集
2. シギント(SIGINT):通信傍受
3. コミント(COMINT):通信情報収集
4. イミント(IMINT):画像情報収集
5. ヒューミント(HUMINT):人的情報収集
この中でヒューミントは非常に重要な位置を占めています。特に現代ではデジタル技術が発達し、機密情報の管理が厳格化する中、「まずい話は口頭で行う」という原則があります。通信や文書に残らない情報を収集するには、人間関係を構築して信頼を得る方法が不可欠なのです。
また、ヒューミントはシギントなど他の情報収集手段では得られない質の情報、特に相手の表情や感情といった非言語情報も含めて収集できる点が強みです。
Q. 人の心を掴むために、スパイはどのような心理的弱点を狙うのでしょうか?
伝統的に「MICE」と呼ばれるフレームワークがあり、これに稲村氏が「LDSS」という要素を加えた「MICELDS」という総合的なアプローチがあります:

M(Money):金銭
I(Ideology):思想・信条
C(Compromise):名声・信用を失わせる要素
E(Ego):自己承認欲求
L(Love):愛
D(Disgruntlement):不満
S(Stress):ストレス
S(Secret):秘密
このうち金銭(M)は全体の約半分を占める最も有効な手段です。相手にお金を渡すだけでなく、小さな情報提供に対して報酬を支払い、次第にその関係を深めていくという「返報性の原理」を利用します。
思想・信条(I)は、従来は共産主義などの政治思想を指していましたが、現代ではより広く「その人の信念や価値観」を含みます。例えば環境保護や社会正義といった信念に共感を示し、関係を構築することもあります。
名声・信用を失わせる要素(C)は、ハニートラップ(性的な関係を利用した罠)が有名ですが、それ以外にも飲酒運転などの違法行為を誘導して証拠を握り、協力を強要するといった手法もあります。
Q. 特に「愛」の要素はどのように利用されるのでしょうか?
愛(L)は非常に強力な心理的要素です。これにはいくつかの種類があります:
1. 恋愛感情
2. 家族愛
3. 友情
4. 組織愛(忠誠心)
5. 自己愛
特に家族愛は強力で、「家族に危機的状況が起きた時に家族を救うため」であれば、普段なら決して行わないような行為にも手を染めることがあります。一方、友情に基づいて情報活動に加担するケースは統計的に少ないとされています。
組織愛(忠誠心)については、逆に組織への恨みや復讐心が燃え上がると、積極的に情報を漏らすケースもあります。

また、中国特有の手法として、「国家に対する愛(愛国心)」を利用するケースがあります。中国は在外華僑に対して愛国心を高めさせ、協力を促すスキームを確立しています。
Q. スパイが接触するターゲットはどのように選ばれるのでしょうか?
スパイ活動では、まず「どの情報が必要か」を特定し、その情報へのアクセス権を持つ人物を絞り込みます。そして、その中から心理的な弱点を持つ人物をさらに選別します。

したがって、「誰でも落とせる」というわけではなく、特定の情報にアクセスできる人物の中から、最も心理的に脆弱な人物を見極めるという選別プロセスがあります。しかし、プロのスパイが時間をかけて接触した場合、ほとんどの人は何らかの形で情報を提供してしまう可能性があるといえます。
Q. コインチェック事件のような現実のケースでは、どのようなアプローチが使われたのでしょうか?
2018年に発生したコインチェック事件(約580億円相当の仮想通貨NEMが不正流出)では、サイバー空間だけでなく人間関係の構築も重要な役割を果たしました。北朝鮮の工作員とされる人物が、約半年もの時間をかけて担当者との信頼関係を構築していたことが判明しています。
このように、映画やドラマで描かれるような「カリスマハッカーがちょちょいのちょいで侵入する」というイメージとは異なり、実際の攻撃では長期間にわたる人間関係の構築が行われることがあります。技術的な防御を破るよりも、人間の心理的弱点を突く方が効率的だからです。
Q. ビジネスパーソンはこのような心理戦術からどのように身を守れるでしょうか?
まず重要なのは、自分自身の弱点を客観的に分析することです。MICELDS(金銭、思想・信条、名声・信用、自己承認欲求、愛、不満、ストレス、秘密)の観点から、自分がどの部分に弱いかを認識しておくことが大切です。
また、企業としては物理的・技術的なセキュリティだけでなく、人的セキュリティの教育も継続的に行う必要があります。しかし、人材の流動性が高い現代では、教育効果を維持するのが難しいという課題もあります。
特に注意すべきは、アクセス権限を持つ人々、つまり重要情報に触れる立場にある人々です。彼らが標的になりやすいことを認識し、適切な対策を講じることが重要です。
Q. スパイ活動の手法は、一般のビジネスシーンでも応用できるのでしょうか?
良好な人間関係を構築するという観点では、スパイ活動の一部の手法は正当なビジネスでも応用できます。例えば、生命保険の営業では見込み客の悩みをリストアップし、その悩みに対して自社のサービスを売り込むのではなく、まず人として解決策を提案するアプローチが効果的です。
特に重要なのは「ギブ・アンド・テイク」の原則で、まず価値を提供することから始めることです。これは返報性の原理に基づいており、相手に何かを与えることで、相手も何かを返したいという心理が生まれます。
ただし、これらの手法を使う際には倫理的な配慮が必要です。人の弱みにつけ込むのではなく、Win-Winの関係を構築することを目指すべきでしょう。