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終戦80年:日本降伏の理由は原爆ではない
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2025年8月14日

終戦から80年を迎える今、私たちは「誰が日本を降伏させたか」という問いに、正確に答えられるか?千々和泰明氏が「戦争終結論」に基づき、終戦のプロセスを徹底解説し、日本降伏の真実に迫る。 <ゲスト> 千々和泰明|防衛省防衛研究所 国際紛争史研究室長。広島大学法学部卒業。大阪大学大学院国際公共政策研究科...
誰が日本を降伏させたのか?――太平洋戦争終結のプロセスを紐解く
太平洋戦争終結から80年近くが経った今でも、「なぜ日本は降伏したのか」という問いは様々な視点から議論され続けています。広島・長崎への原爆投下がその決定的要因だったのか、それともソ連参戦の影響が大きかったのか。防衛省防衛研究所の千々和泰明氏は、この問いに「戦争終結論」という学問的視点から接近します。

Q. 「戦争終結論」とは、どのような学問なのでしょうか?
戦争終結論は国際政治学の一分野で、戦争と平和の問題を研究するものです。特に「なぜ」「どのようにして」戦争が終わるのかを考察します。海外では比較的研究が進んでいる分野ですが、戦後の日本ではほとんど研究されてきませんでした。戦争をどう終わらせるかという議論が、戦争を容認することと誤解されてきた可能性があります。しかし現在の国際情勢、ウクライナやイスラエルの問題を考える上でも、紛争をどう収束に導くかは重要な論点であり、日本でも研究されるべき分野です。
Q. 原爆投下の目的について、どのような説があるのでしょうか?
アメリカが日本に対して核兵器を使用した理由については、主に二つの説があります。一つは「核外交説」で、これは本来日本を降伏させるために核兵器を使用する必要はなかったが、戦後のソ連との競争を意識して、アメリカの力を示すための威嚇として使用したという見方です。
もう一つは「コスト最小化説」で、戦争を早期に終結させ、日米双方の膨大な人命の犠牲を回避するために核兵器を使用したという立場です。アメリカではコスト最小化説が主流である一方、日本では核外交説を受け入れる傾向があります。これは日本の高校の歴史教科書にも反映されており、受け止め方が日米で逆転している状況が見られます。
Q. 千々和氏は、これらの説についてどのように考えていますか?
千々和氏によれば、核外交説には証拠がないという大きな弱点があります。一方、コスト最小化説は、ローズベルト政権時代からの路線であり、核使用の責任者であったヘンリー・スティムソン陸軍長官の考えでもあったことから、基本的にはこの考え方が妥当だとしています。

しかし、この議論で見落とされがちなのは、「目的」と「効果」の区別です。核兵器使用の目的がコスト最小化だったとしても、それが実際に日本のポツダム宣言受諾において決定的要因だったかどうかは別問題です。千々和氏は、核兵器よりもソ連参戦の方が日本の降伏に大きな影響を与えた可能性があると考えています。
Q. アメリカは日本降伏のためにどのような選択肢を検討していたのでしょうか?
アメリカは日本に無条件降伏を求めるために、主に3つの選択肢を検討していました。
1. 日本本土進攻: ドイツとの戦争と同様に、本土に上陸して戦うという選択肢です。1945年11月に九州から上陸し、1946年3月には関東平野に上陸する「ダウンフォール作戦」が計画されていました。しかし、沖縄での地上戦の惨状を目の当たりにしたアメリカ軍には躊躇いもありました。
2. ソ連参戦: ソ連が大陸方面から日本を攻撃すれば、ドイツの場合と同様に挟み撃ちにできるため、戦争終結に大きな助けになるとされました。ただし、戦後の東アジアにおけるソ連の影響力増大というデメリットもありました。
3. 核兵器の使用: 極秘に開発を進めていた原爆の使用により、本土進攻を避けつつ日本を降伏に追い込む選択肢です。しかし、都市を住民ごと破壊するという人道上の問題が残ります。
Q. 日本側はどのような戦争終結シナリオを描いていたのでしょうか?
当初、日本はドイツが勝つことを前提とした出口戦略を持っていました。ドイツがイギリスを屈服させれば、アメリカもそれ以上介入してこないだろうと考え、アメリカとの間でも妥協的な和平を達成できると楽観視していたのです。
しかし、ドイツが勝てないことが明らかになると、「一撃和平」を模索するようになります。どこかで軍事的勝利を収め、それをもって有利な和平を結ぼうとしたのです。レイテ沖海戦での失敗、沖縄の陥落を経て、最後の一撃の舞台は本土となりました。
ただ、1945年5〜6月頃になると、本土決戦の実現可能性に不安が高まります。弾薬不足や、航空機の生産能力低下を考えると、本土決戦も厳しいという認識が広がりました。そこで浮上したのが、ソ連の仲介を得て和平を模索するという「ソ連仲介策」でした。
Q. なぜ日本はソ連仲介策に固執したのでしょうか?
日本は当時ソ連との間で日ソ中立条約を結んでおり、ソ連は連合国の一員でありながら日本とは中立関係にあるという特別な立場にありました。日本としては、スターリンの力を借りて少しでも有利な和平に持ち込もうとしたのです。
しかし、実はすでに1945年2月のヤルタ会談で、スターリンとローズベルトの間では「ヤルタ密約」と呼ばれる約束があり、ソ連はドイツ降伏後3ヶ月以内に対日参戦することが決まっていました。

興味深いことに、モスクワにいた佐藤尚武大使は本国に対して「ソ連仲介策は絶対に無理です。日本は無条件降伏するしかありません」と報告していましたが、東京の指導層はこれを受け入れずにソ連仲介にこだわり続けました。ソ連側は日本の特使受け入れについて「のらりくらり」と回答を引き延ばし、その間にヨーロッパからの軍の移動を進めていたのです。
Q. 広島への原爆投下と日本の降伏はどのように結びついているのでしょうか?
千々和氏によれば、広島に対して核兵器が使用された8月6日以降も、日本の指導層はソ連からの返事を待っている状態でした。実際、日本政府は広島で使われた爆弾が本当に原爆かどうかの確認に2日を費やしています。

一方、8月9日午前4時(日本時間)にソ連参戦の第一報が入ると、わずか6時間後には最高戦争指導会議が開かれ、ポツダム宣言受諾を前提とした議論に進んでいました。このタイミングの違いから、千々和氏はソ連仲介策の破綻が日本の降伏に大きな影響を与えたと見ています。
Q. ポツダム宣言にはどのような問題があったのでしょうか?
ポツダム宣言には、天皇制存置についての明確な条項がありませんでした。実際のドラフトには「日本が二度と侵略の野心を持たないと世界を完全に納得させられるのであれば、現王朝の元での立憲君主制を含むものとする」という条項があったものの、トルーマン大統領とバーンズ国務長官がこれを削除しました。
また、ポツダム宣言にはスターリンの署名がなかったため、日本はまだソ連仲介の可能性があると誤解してしまいました。さらに、「この宣言を受け入れなければ、迅速かつ完全なる壊滅あるのみとする」という警告も、原爆の存在を明示していなかったため、その深刻さが伝わりませんでした。
千々和氏は、ポツダム宣言に受諾期限を設ける、正式な外交文書として発出するなど、様々な工夫が可能だったと指摘しています。
Q. 太平洋戦争終結の過程から、私たちは何を学ぶべきでしょうか?
戦争終結には大きく分けて「紛争原因の根本的解決」と「妥協的和平」という2つの形があります。将来の危険を除去しようとすれば犠牲が出るし、犠牲を最小化しようとすれば将来に危険が残るというジレンマがあります。
千々和氏は、アメリカが「あらゆる手立てを尽くしたけれども、これしか方法がなかった」と言えるかどうかには疑問を呈しています。もっと外交的な選択肢や工夫があった可能性を指摘し、歴史から学ぶべき教訓として、戦争終結のプロセスにおける様々な選択肢の重要性を強調しています。