
フェンタニルが蝕むアメリカ社会・経済
アメリカの静かな危機:フェンタニル問題が社会に及ぼす深刻な影響
「モルヒネの50倍から100倍の効力があり、わずか1〜2mg(塩の粒1〜2個程度)で死に至る可能性がある」という恐ろしい薬物、フェンタニル。この薬物がアメリカ社会で引き起こしている危機について、南山大学の山岸敬和教授に詳しく解説していただいた。
フェンタニルとは何か?それはなぜアメリカで問題になっているのか?

Q. そもそもフェンタニルとはどのような薬品なのですか?
元々はがんによる痛みや大きな手術後の痛みを和らげることを目的として作られた合成鎮痛剤です。非常に強力で、モルヒネと比較すると50〜100倍の効果があるため、ほんの少量で大きな鎮痛効果が得られます。しかし、間違った使用をすると中毒死に至る危険な薬物です。
Q. アメリカではどのような問題が起きているのですか?
フェンタニルはわずか1〜2mgで死に至る可能性があります。
しかし同時に服用すると快感や安堵感、現実逃避のような感覚をもたらすため、一度経験すると依存性が高く、どんどん服用量が増えて中毒に至るケースが多発しています。アメリカ社会では中毒者や死亡者数が増加し、大きな社会問題となっています。
Q. オピオイド中毒とフェンタニル問題はどのような関係がありますか?
オピオイドは広い概念で、その中にフェンタニルやオキシコドン(商品名オキシコンチン)などが含まれます。アメリカでは2015〜2017年に3年連続で平均寿命が低下するという異常事態が発生し、米国疾病予防管理センター(CDC)はその主な原因がオピオイドの過剰摂取であると発表しました。この「オピオイド危機」は1990年代から広がり始め、特に中年の白人男性の死亡率上昇が目立ちました。
Q. オピオイド中毒がアメリカで広がった背景は何ですか?
1990年代、パーデュー・ファーマという製薬企業がオキシコンチンという危険性の高いオピオイド系鎮痛剤を販売していました。この薬の危険性が判明した後も、医師への販売促進や接待を続け、処方が増加していきました。医師が意識的または無意識的にこの薬の危険性を過小評価してしまい、広範な処方につながりました。オキシコンチンが規制された後、代替薬物としてフェンタニルが広がっていきました。
Q. 日本とアメリカの医療制度の違いがこの問題にどう影響していますか?
日本には統一的な医療保険制度があり、厳格で抑制的な薬剤管理体制が整っています。オピオイドを処方するには麻薬施用者免許が必要で、基礎知識の習得が求められます。一方、アメリカでは州によって医師の質的管理が緩いところもあり、「Pill mill」と呼ばれる、利益のためだけに薬を処方する開業医も存在します。患者が鎮痛剤を求めるとすぐに処方する医師もいて、アメリカの分断された保険制度もこの背景にあります。
Q. フェンタニルはどのようにアメリカに流入しているのですか?
現在広まっているのは圧倒的に違法なフェンタニルです。

アメリカ国内での生産は規制が厳しいため、主にメキシコから流入しています。メキシコの麻薬カルテルがフェンタニルの製造に関わっており、中国から原料を輸入して組み立てる形が多いようです。これを車のタイヤや部品に隠して陸路でアメリカに持ち込むケースが報告されています。
Q. フェンタニル危機の社会的・経済的影響は?
2023年の統計では、オピオイドの過剰摂取で約8万人が亡くなっています。これはアメリカの交通事故死者数の2倍にあたります。2000年代に入ってからは累計で約70万人以上がオピオイドの過剰摂取で亡くなっており、これはアメリカが第二次世界大戦で失った戦死者数の2倍に相当する衝撃的な数字です。
オピオイド中毒者の増加により、警察の取り締まり費用、医療体制の逼迫、刑務所の過密化、裁判所の負担増大、そして何より大量の労働力喪失が発生しています。試算によると約2.7兆ドル(約386兆円)の損失があるとされ、これは日本の特別会計予算に匹敵する巨額です。
Q. アメリカ社会のどのような背景がこの問題を助長しているのですか?
プリンストン大学の経済学者アンガス・ディートンらが提唱する「絶望死」という概念があります。これは特に中年層の死亡率上昇を説明するもので、将来への不安、自信の喪失、経済的不満、社会からの孤立感などが背景にあり、自殺や薬物の過剰摂取、アルコール関連死につながっているというものです。

アメリカンドリームという「努力すれば成功する」という文化は、裏を返せば「努力しなければ落ちこぼれる」というプレッシャーも生み出します。努力しているのに社会的に成功できない人々の絶望感が、この問題の深層にあると考えられます。
Q. 日本でもフェンタニル問題が起きる可能性はありますか?
日本の医療保険制度と薬剤管理は厳格なため、処方薬が大量に社会に出回るという事態は考えにくいです。しかし、社会的孤独や絶望感という背景があれば、違法なフェンタニルが入り込み、現実逃避を求める人々の間で広がる可能性は否定できません。特に日本は自殺率が高いことでも知られており、社会の中で苦しんでいる人々に一度広まると大きく拡散するリスクはあります。
Q. アメリカでは今後、この問題はどうなっていきそうですか?
現在の取り組みにより死亡者数の増加ペースは緩やかになりつつあるものの、依然として危険な状況は続いています。

医師間でオピオイド処方履歴を確認できるシステムの導入や、過剰摂取解毒剤(ナロキソン)の開発など、民間主導の対策も進んでいます。しかし、本来必要な予防対策への政府の注力はまだ十分とは言えない状況です。