PIVOT TALK HEALTH
イーライ・リリーの死角 770億ドル市場の未来
(210)
7,355回視聴
2024年6月13日

投資から健康、日々のパフォーマンスまでビジネスパーソンに必須の健康情報を学ぶPIVOT HEALTH。第1回は株価テスラ超えの製薬会社、イーライリリーをテーマに製薬業界のトレンドから肥満症治療薬の仕組みを学ぶ。
急成長する肥満治療薬市場の深層:2強体制、潜む死角、そして日本企業の挑戦
GLP-1受容体作動薬を中心とした肥満治療薬市場は、急速な拡大を続けている。モルガン・スタンレーのリサーチによると、2030年には世界市場が770億ドル規模に達するとの予測が出ており、多くの注目を集めている。
米国における肥満の社会問題化に加え、先進国での健康意識の高まりがこの市場の大きな成長を牽引している。しかし、その急速な成長の裏側には、薬の価格、保険適用、そして製薬会社の競争構造など、多角的な視点から考察すべき複雑な課題が存在する。
Q. 肥満治療薬市場は今後どのように拡大する見通しなのか?
肥満治療薬の市場は、今後もその拡大は確実視されている。モルガン・スタンレーの予測によれば、この市場は2030年までに約770億ドル、日本円にして約12兆円(1ドル155円換算)という巨大な規模に成長する見込みだ。
この成長の背景には、米国で肥満が深刻な社会問題となっていること、そして他の先進国においても、生活習慣の変化に伴い肥満人口が増加傾向にあるため、需要が今後も高まっていくことが挙げられる。特に米国では、国民病とも称される肥満に対し、抜本的な解決策が求められており、GLP-1系肥満治療薬はその大きな担い手となると予測されている。
Q. なぜ市場拡大の大きな障壁として「価格と保険の問題」が挙げられるのか?
肥満治療薬の市場拡大における主要な障壁は「価格」と「保険適用」にある。一般に、経済的に恵まれない人々ほど肥満のリスクが高いとされる。これは、健康的な食品が高価で入手しにくい一方で、安価な加工食品やスナック菓子に頼りがちになるという「健康の社会的決定要因」に起因すると考えられている。さらに、低所得者が多く住む地域では、新鮮な食品を扱うスーパーマーケットが少ない「フードデザート」の問題も指摘されている。
現状、肥満治療薬の価格は高価であり、富裕層が主な購買層を形成している。しかし、市場を真に拡大し、より多くの人々に薬を届けるためには、この高薬価が大きな壁となる。低所得層への普及には、公的医療保険(メディケアやメディケイド)や民間の医療保険での適用が不可欠であるものの、高額な薬の適用拡大には、保険者の財政的負担が増大するため、消極的な態度が見られる。製薬企業は高収益と市場拡大の間で、価格戦略と保険適用拡大のバランスを取るという大きな課題に直面しているのだ。
Q. 現在の肥満治療薬市場で、イーライリリーとノボノルディスクが強い競争優位を持つ理由とは?
肥満治療薬市場には多数の新規参入企業が見られるものの、イーライリリーとノボノルディスクという二つの製薬大手は、盤石な地位を確立している。これは、製薬ビジネスが単に有効な薬の物質を発見するだけでなく、広範な専門知識とインフラを要求する「総合芸術」であるためだ。
「総合芸術」とは、新薬候補物質の発見、その有効性と安全性を確認するための全世界での大規模な臨床試験の実施、各国の規制当局との承認交渉、さらに、薬を高品質に保ったまま世界中に安定して供給するサプライチェーンの構築といった、多岐にわたる複雑なプロセスを指す。
イーライリリーとノボノルディスクは、長年のインスリン事業を通じて、既にこれらのグローバルなインフラ(製造工場、サプライチェーン、各国規制当局との強固なネットワーク)を構築している点が最大の強みである。この巨大な先行者利益は後発企業が容易に模倣できるものではなく、仮に優れた薬を開発できたとしても、その製造や供給をこれら2社に頼らざるを得ないケースも少なくない。このため、2強の競争優位は簡単に揺らぐものではないと考えられている。
Q. 成長著しい肥満治療薬市場に潜む「死角」とは具体的に何か?
肥満治療薬市場の熱狂的な評価には、いくつかの「死角」が存在する。一つ目は「未知の副作用」のリスクである。新薬は承認された後も、全世界で何千万、何億人もの多様な人々に使用される中で、予期せぬ副作用が発覚する可能性はゼロではない。例えば、特定のがんリスクの上昇や、特に若年層における精神面での不安定化といった潜在的な問題が指摘されることがある。「新薬は3年寝かせろ」という格言があるように、長期的な安全性の確立には時間が必要である。もし重篤な副作用が発見された場合、企業の収益がゼロに近づくこともあり得るだろう。
二つ目の死角は「価格の維持と市場拡大の矛盾」である。現在の高株価は、現在の高薬価を維持したまま、市場が広範囲に拡大するという楽観的なシナリオに基づいている場合がある。しかし、先に述べたように、肥満問題は低所得者層にも多く見られるため、真の市場拡大には価格の引き下げが不可欠となる。薬価交渉の進展や保険適用の範囲が想定通りに進まなければ、売上やユーザー数の伸びは鈍化する可能性を秘めている。
三つ目の死角は「革新的な競合薬によるディスラプション(破壊)」である。現在の薬よりはるかに安価で、同等かそれ以上の効果を持つ画期的な新薬が登場した場合、既存の製薬大手が持つサプライチェーンや規制当局とのコネクションといった優位性を乗り越え、市場構造が一変する可能性がある。
Q. 日本企業による「低分子化合物」を用いた治療薬の開発は、市場をどのように変革し得るのか?
肥満治療薬市場におけるディスラプター(破壊的イノベーター)候補として、日本の製薬企業である中外製薬の取り組みが注目されている。同社が開発し、イーライリリーが治験を進める薬物候補「オリフォグリプロン」は、これまでのGLP-1関連薬とは異なる特長を持つ。
従来のGLP-1関連薬の多くは、遺伝子組み換え技術を用いて製造されるタンパク質製剤であり、その製造プロセスは複雑でコストがかかる。一方、オリフォグリプロンは「低分子化合物」と呼ばれる種類の薬であり、化学合成による製造が可能である点が画期的だ。化学合成はタンパク質製剤の製造に比べて、品質管理や製造環境のコストを大幅に抑えられる可能性がある。
フェーズ2試験では、最大15%程度の体重減少効果が確認されており、現在最終段階のフェーズ3試験が世界中で進行中である。もしこの薬が承認され、例えば現在の薬の半額程度の低価格で提供されるようなことがあれば、既存の市場を一気に覆す「ゲームチェンジャー」となる可能性を秘めている。その価格競争力は、前述の「価格と保険の壁」を大きく乗り越え、市場に革命をもたらし得る。
Q. 肥満治療薬の本来の目的と、誤った使用がもたらすリスクは何か?
肥満治療薬は、人類が生きる上で不可欠な感覚である食欲に対し、そのバランスを意図的に崩すことで作用する。健康上のリスクを抱える重度肥満者にとって、この薬は既にバランスが崩れた身体の状態を正常に戻すための強力で画期的な手段となるだろう。その効果は病態を改善し、生命予後を向上させるものとして非常に重要である。
しかし、本来食欲や体型に問題がない健康な人々が、美容目的で安易にこの薬を使用することは極めて危険である。薬は、正常な身体のバランスを、悪い方向に傾けさせるリスクを常に伴うものだからだ。現在の科学では知り得ない長期的な副作用や、身体システムへの不可逆的な影響が懸念される。薬というものは常にリスクをはらんでおり、その本質を深く理解し、適応外使用による潜在的な危険性を十分に認識することが不可欠である。