
2022/07/31
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まず頼朝は武士の府の中心を鎌倉に定めた。これは意図的なものだったと後にされるが、実際は東国に割拠する政権、例えば平将門が目指したものを模倣したのだろう。
将門と違うのは朝廷に逆らわず、軍事権門として、その中に組み込まれることも辞さなかった点にある。
だが頼朝は武家政権を樹立する際、朝廷の影響力が及び難い東国を選び、そこから動かなかったのは正解だった。

平家のように京都に本拠を置く限り、やがて公家化していき、朝廷の身分秩序の中に組み込まれてしまう可能性があった。そうなれば各地の武士たちの支持を失うのは目に見えている。
または、平清盛がそうだったように、洛中という狭い場所で感情的対立がヒートアップし、武力の行使に至ってしまう可能性もあった。
それゆえ頼朝が地理的にも政治的にも朝廷と距離を置き、一定の独立性を保持する方針を貫いたことが、鎌倉幕府の存続につながったと言えるだろう。
また武辺者をいち早く政権の中枢から弾き出し、京下りの吏僚を重用したことも、鎌倉幕府の成功要因だろう。
政権というものは、軍事力だけでは成り立たない。軍事力は政権を支えるものであり、軍人が政権の主体となると、うまくいかないケースが多い。
現代でも軍事クーデターに成功したアフリカなどの国では、軍人が政治の中枢に居座ったままだと、必ずうまくいかなくなる。しょせん餅は餅屋なのだ。
それゆえ初期段階では、軍事組織が政権の中枢を担うことがあっても、平時に移行するにつれ、徐々に政治のプロたちに、その座を譲っていかねばならない。その先鞭(せんべん)をつけたのが鎌倉幕府だった。そこに頼朝の賢明さを見る思いがする。
続いて、頼朝がどのような者たちをスカウトしたか見ていこう。
頼朝の死後、二代将軍頼家を支えるべく選抜された宿老十三人の中には、四人の吏僚がいる。
十三人の内訳だが、武士が北条時政・同義時・三浦義澄・和田義盛・梶原景時・比企能員・安達盛長・足立遠元・八田知家の九人で、文士(文官)が中原親能・大江広元・三善康信・二階堂行政の四人になる。
武士たちは各氏族の長であり、軍事的な貢献度が高かった。その一方、文士四人に軍事的貢献は皆無だ。
今回は経営力という趣旨なので、文士のみ紹介するが、十三人の詳細を知りたい方は、拙著『鎌倉殿を歩く 一一九九年の記憶』(歴史探訪社)を購入いただきたい。

まず文士の筆頭に挙げられるのは大江広元だろう。京の公家たちから「二品(頼朝)御腹心専一者」と呼ばれるほど頼朝の懐刀として活躍したこの文士は、下級公家の出身で、京にいる限り、出世は頭打ちだった。
ところが実兄の中原親能が先に頼朝にスカウトされた縁で鎌倉幕府に招聘されると、その手腕をいかんなく発揮し、まさに「鎌倉幕府創設の立役者」と呼ぶにふさわしい活躍を見せる。
だが風見鶏だったのも確かで、一本筋の通った人物というより、状況に応じて権力者に従っていたという側面がある。だがそれも鎌倉幕府の安定という側面からすれば、致し方なかったのも事実だ。
言うなれば鎌倉幕府は、大江広元の作品であると言っても過言ではなく、「大江幕府」と呼ばれるのも当然の気がする。
広元の兄の中原親能は、明法道を家学とする家の出で、広元と共に法律に明るかった。だが彼の本領は主に朝廷との外交面で発揮され、京都守護や政所公事奉行などを歴任し、鎌倉幕府を陰に陽に支えていた。
広元のようには表舞台に登場しなかったが、その性格が野心家ではなく実務家だったので、頼朝の謀臣的立場には成り得なかったのだろう。
明法家兼算道家で太政官書記を世襲する中級貴族の家に生まれた三善康信は、初代問注所執事(今で言えば最高裁長官)となって辣腕(らつわん)を振るった。
頼朝の死から二代頼家の擁立に至る鎌倉幕府存続の危機において、「十三人の宿老体制」を積極的に推し進めたのも康信と言われ、要所において存在感を示している。彼の法律家としての公正さが、鎌倉幕府の信用を高めていたのは言うまでもない。
二階堂行政は会計、法令、訴訟などの行政文書作成の専門家だった。奥州征伐では戦後処理を託され、頼朝の上洛にも同行した。おそらく庶務全般を担っていたと思われる。
また頼朝が永福寺を建立することになった時は、行政が造立奉行を命じられた。行政は普請・作事にも精通していたからだろう。いわば典型的な実務官僚で、後の石田三成に通じるものがある。
この四人なくして鎌倉幕府は続かなかったと言っても過言ではないが、彼らを政権の中枢に据えた頼朝の慧眼なくして、彼らの活躍の場もなかったと言えるだろう。やはり頼朝は、ただ者ではなかったのだ。