
2022/02/01
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日本では家庭用ゲーム機がこの20年間、毎年1千万台売れてきた。これはルームエアコンよりも多く、テレビと同じくらい、最近ではPCと変わらない出荷台数である。もはや家電の1つとも言える普及率を誇るゲーム機だが、最初は「玩具」の一種であった。

この産業のハイライトは第6世代まで、2001年にセガがドリームキャストで撤退するのが最後である。その後は、ほぼ任天堂/ソニー/マイクロソフトの3社寡占の市場となっている。
そこまでの20年間の家庭用ゲーム参入企業を並べるだけでも驚きのラインナップではないだろうか。
「アーケードゲーム」のセガ/コナミ/ナムコ/タイトー/カプコン、「PCゲーム」のコーエー/イマジニア/エニックス/スクウェア、「玩具」のマテル/任天堂/バンダイ/エポック/タカラ/トミーから始まり、「電機メーカー」のソニー/ビクター/NEC/シャープ/パナソニック/カシオ/東芝/リコー、「出版」から学研/アスキー、「TV・音楽・映画」でフジテレビ/バップ/ポニー/東宝/東映、「アニメ」でガイナックスなど。最終的にそこに「PCソフトウエア」のマイクロソフトが参入してくる。
ここまで多くの企業が参入しながら、実質的に任天堂やソニーを追い込むところまで行ったのは1千万台を売ったNEC&ハドソンの「PCエンジン」と800万台の「セガ・マークⅢ」、そして3千万台を売った「メガドライブ」くらいだろう。

セガはソフトとしても業界のけん引役であり(『シェンムー』や『セガラリー』『サカつく』『バーチャファイター』などジャンルの“元祖”タイトルを量産する創造的な企業だった)、SG1000(1983)、マークⅢ(1985)、メガドライブ(1988)、セガサターン(1994)、ドリームキャスト(1998)と20年間ずっと任天堂に挑戦し続けてきた野心的な企業であった。

家庭用ハードウエアで任天堂を最初に追い込んだのは1988年のメガドライブ(米国での販売名はジェネシス)である。日本での300万台はパッとした業績とは言い難いが、北米での2千万台という販売実績は驚異的なものである。
北米ゲーム市場シェアは1990年の9(任天堂):0.5(セガ)から、1993年ごろには4(任天堂):6(セガ)と同格以上のレベルにまで追い越している。
1990年代半ばのセガの米国でのブランド力は絶大だった。
「10代の若者にとっては、セガはメガメディアのどの有名企業よりも強力なブランドだ。この世代でセガに太刀打ちできるブランド名は、MTVだけである」(ケビン・メイニー『メガメディアの衝撃』徳間書店 1995)。
セガは若者向けのCoolなブランド、任天堂は子供向けの時代遅れ、というイメージが固着していった時代だった。
米国で1800万世帯がジェネシスをもち、テーマパーク展開やケーブル回線でプレイするセガ・チャンネルの構想もあり、当時「将来が期待される新進気鋭のテック企業」にはマイクロソフト、AOL、オラクル、HP、インテル、コンパックそしてセガが名を連ねた。
そうしたセガ栄華の時代の幕引きはソニーのPlayStation(PS)の登場あたりから始まっている。第4世代でセガと任天堂が並び称された時代から、第5・6世代となる1990年代後半から2000年代前半はPS1、PS2の独走状態で、任天堂にとっても悪夢のような10年だったと言える。
もともとはパートナーで共同開発していた任天堂とソニーの2社は、直前で山内溥の翻意により破談し(ソニーがゲーム業界に浸食してくることを警戒したと言われている)、ソニー社内でもほぼ否決・撤退が決まりそうな状況だった。
当時俊英、久夛良木健が、まだ実権をもっていた創業者世代の大賀典雄に直接かけあって、役員会で大半が反対するなかを強引に通しにいった奇跡的な案件である。玩具流通で規制が強かった任天堂流通ではなく、音楽レコード流通で民主的に多くのソフトを集めたPSに多くのメーカーがのっかっていった。
日本では『ドラゴンクエスト』『ファイナルファンタジー』がPSにソフトを出した1997年ごろが、勝負の決するタイミングだっただろうか。
バンダイがアップルと組んで開発したピピンアットマークは260億円の損失を招いた黒歴史となり、世界最初のVR機であるバーチャルボーイで任天堂も手痛い打撃を負い、最後の挑戦となったドリームキャストは800億円の失敗となってCSK大川功が私財を投入してギリギリのところでそれを救った。
多くの会社が存亡を賭けて投じ、多くの失敗を重ね、最終的に今の3社だけが残っている。
ハードの過騰競争時代が終わり、ゲームソフトの面でも日本覇権は2000年代に切り崩されていく。米国はゲーム開発をチームワークでなすものと定義し、教育システムと開発手法の洗練に特化していった。
第1話で述べたように、米国は人材育成に積極的で、日本に対する後れを集団の力によって克服しようとしてきた。マイクロソフトは開発環境を無料開放して大学にもどんどん配布、Game Developer Conferenceのような業界事例を皆でシェアしあっていった。
日本も1980~90年代は模倣に寛容な自由な業界だった。各社がまねしあい、競争のなかで少しでも差別化しようと試みた。
だが多くの競争を「学び」終えて、老成していった各社はノウハウの提供に非常に憶病になり、2000年代は知財裁判が最も活発化した。転職や引き抜きが不活性化し、「普通の大企業化」していった日本ゲーム産業は、急速にその存在感を海外で失っていくことになる。