
2023/03/12
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1992年開園、2200億円の総工費、一時は「東の東京ディズニーランド、西のハウステンボス」とまで呼ばれたこの施設は、典型的なバブル・リゾート開発の失敗事例であった。

円高ブームで日本人が憧れた「海外」をコンセプトに、長崎オランダ村(1983~2001、2016に復活、現在休園中)、新潟ロシア村(1993~2004)、熊本アジアパーク(1993~2000)、志摩スペイン村(1994~)などが乱立したこの時代。
中途半端に模倣された「テーマパーク」たちは結果的に本物の海外旅行の魅力に勝てず、2~3年目で来場者も凋落。“成功事例が一つもない”地方創生事業となっていた。

長崎オランダ村を造ったのも、ハウステンボスを造ったのも、長崎県西彼町村役場から東京の料亭、ミネベアの経営という破天荒なキャリアをもつ神近義邦であった(*1)。
伊豆シャボテン公園をベースに1980年に長崎バイオパーク、1983年に長崎オランダ村を開発、その駐車場として持ちかけられた50万坪の巨大な工業団地跡地を、未来都市「ハウステンボス」構想に変えて開業したのが1992年のことであった(*2)。
初年度375万人、翌年売り上げは713億円までつける大商いだったが、課題は経常利益で毎年100億円を超える赤字。2000年で債務超過になるまで累積900億円もの損失を出した。

2000年に創業者神近義邦が引責辞任(*3)、2003年倒産後は野村傘下の投資会社が経営再建を引き受けるも、2009年度のリーマンショックで挫折。撤退表明後も売却先30社に断られ、九州財界も見放し、もはや破産・閉園は秒読みという状況だった。
このまま崩落すれば佐世保市に壊滅的な影響を及ぼすと朝長則男市長が、HIS(1980~)、スカイマーク(1996~)、「エイチ・エス証券(現Jトラストグローバル証券)」(2004~)と3社を上場まで導いた澤田秀雄をテレビで見かけ、いちるの望をかけて夜討ち朝駆けで何度も訪問、最後は“泣き落とし”に近い形で支援にこぎつける。

再建はどう見ても“無理ゲー”だった。パーク事業はとにもかくにも立地がすべて。TDLの関東圏3000万人、USJの大阪圏1500万人に対して長崎人口は130万人。長崎空港からも車で1時間かかる立地の悪さ。
ピークの425万人(1996)から141万人(2010)まで急落が止まらず、損益分岐は500万人集客と言われる野放図な経営で、創業以来18年間黒字になったことがない。累積経常赤字は1200億円を超えていた。
当然ながらパークとしてのキャラクターやIPがあるわけでもない。このハウステンボス再生事例がTDLやUSJ以上に際立っているのは、ここまで悪条件がそろっているパークですら一人の手腕によって再生しえるという人智の力をまざまざと見せつけるからだ。
2010年、澤田の経営改革は、USJとまさに同じく「静かなオランダの街並み、大人のリゾート」という過去のコンセプト一掃から始まる(*4)。
(客が)楽しいことならなんでもあり、というレジャー路線に転換し、TDL・TDSの1.6倍もの広さを誇る巨大なハウステンボスは、普通に運営すると人件費も経費も膨大。
パークの3分の1を入場無料に変えてしまい、無料スペースに置いたONE PIECE遊覧船「サウザンド・サニー号」就航で人を呼び寄せ、そこからの有料転換を狙った。
「2割売り上げ増、2割経費削減すれば成功できる」と目標を示し、損益分岐も150万人までおさえた圧縮経営を敢行。過去の因習を排除し、調達に地元企業1社独占を廃して、徹底した相見積もり方式に変更(これだけで年3億円の花の調達費は1億円も改善!)。
それでも人には手をつけず、元の人員のまま「サプライズミュージカル」「宝探しゲーム」など追加投資のかからないイベントを社員中心に展開。毎日30種類、年間で200種類ものイベントの数々。なんと初年度で見事に黒字達成、社員には10年ぶりにボーナスも出した。
ハウステンボス内のホテルに住み込み、7割の時間を再建に費やす澤田はその手を緩めない(*5)。
「日本一」「世界一」として分かりやすく売れるものを創り出し、2010年から「東洋一のイルミネーション」で700万球のライトで照らした。「日本最多の1000品種、100万本」のバラ園など、“ここにしかないもの”を造って造っていく。
成功ばかりではない。「数々のチャレンジの7割は失敗、でも残りの3割が大成功したから黒字になった」と澤田は言う(*6)。
例えば夜間に人手がなくなる欠点を補うために夕方から入園を無料にした。が、客足は一向に増えない。「価格破壊」というHISやスカイマークで有効だった戦術は使えない。エンタメの怖いところは、新しさや興味がなければ「タダでも入らない」のだ。
本来地元7割・県外3割が理想のパーク事業だが、ハウステンボスに至っては九州中から6割、関東・関西から2割、海外からも1割の来客。2016年には310万人でTDL、USJに次ぐ国内3位のテーマ―パークとなり、翌年売り上げは350億円に経常65億円の高収益企業となった(*7)。
HISの20億円の出資で始まったハウステンボス、2022年に香港投資会社PAGに666億円で売却した。まさに10年の怒涛の経営改革であった。PAGは森岡氏の立ち上げたマーケティング会社「刀」にも投資参加を募っていると言われる。
【脚注】
(*1)神近義邦『ハウステンボスの挑戦』(講談社)1994
1962年に長崎県西彼町農業高校を卒業して西彼町村役場に努めた神近は1965年大干ばつの中で花の栽培で成功し、町内の農業増産にまい進。米の減反政策に反対して町長と折り合いが悪くなって、別の候補者を推挙して町長選挙に当選させてしまった。
そこで長崎の土地を買っていた東京永田町の料亭「一條」の女将室谷秀から土地開発を委託されるも、石油ショックで経営が傾き、4000万円の未払金の取り立てついでに1973年から一條の立て直しに専務となる。
再建に成功すると室谷の娘婿、ミネベアグループの高橋高見にかわいがられ、ミネベアの役員として転々とするところとなり、長崎県に戻ったのは1979年のことである。いわゆる目の前で問題が起きると情念をもって解決に取り組むうちに多くの人を引きつけ、事業をつくってしまう起業家タイプの公務員であった。
(*2)長崎オランダ村が昨年70万人から国内旅行ブームで1985年に120万人になったところから(「東の東京ディズニーランド、西のオランダ村」と呼ばれたのもこのタイミングである)。
その後1990年に200万人とピークにつけた長崎オランダ村だが1993年ハウステンボス設立で客を奪われ、2000年には21万人まで沈み、2001年に閉鎖することになる。
(*3)木ノ内敏久『H.I.S.澤田秀雄の「稼ぐ観光」経営学 』(イースト・プレス)2014
澤田は一度だけ神近に会っているが、後年「神近さんは行政出身なので、(収支という)出入りのバランス感覚が悪かった。長崎オランダ村でやめておけばよかったのに、長崎という小さな市場に東京ディズニーランドに対抗して巨大な箱ものをつくって失敗した。経営はバランス。バランスを崩したら倒産する。神近さんは冒険者だが、経営者ではなかった。僕は両方を追うが、収支を合わせながら夢を実現するバランス感覚がある」という評を残している。
(*4)USJで森岡は「映画のテーマパークで興味をもつ人口は制約が大きすぎる」としたのと同様、ハウステンボスのコンセプト「オランダ」も商圏を狭める制約になっていた。
澤田は「ユトレヒト」「ビネンスタッド」など日本人になじみのない固有名詞(それでもスタッフにとっては思い入れが育ってしまっている)を2013年に改変し「スリラーシティ」「アートガーデン」など日本人の分かりやすい英語表記に変えている。
スタッフやコアファンは“脱オランダがここまできたか”と残念がったが、多くの来園者からは好意的に評価を受けた。まさにこうした事例が、「徹底した顧客目線」を物語っている。
(*5)USJ森岡とハウステンボス澤田に共通していたのは本来専門性がなくとも「現場主義」を徹底していたところである。戦略・計画のみに閉じこもらず、外れたものも含めてよくアイデアを出し、実際に自らスタッフと一緒に手を動かした。
これまで多くの金融系・行政系の人材による改革事例があるが、この2ケースが際立っているのは圧倒的な当事者意識をもつ起業家型人材による、超現場主義かつ戦略的な動きである。
(*6) 桐山秀樹 、丸本忠之『変な経営論 澤田秀雄インタビュー』(講談社)2017
(*7)澤田はその後、2014年に持ち込まれた80億円の債務超過案件、愛知県のラグーナ蒲郡(現ラグーナテンボス)も再生を引き受け、初年度から黒字化に成功している。