
和牛の「細胞データ」は隠れた日本の資産
構成/田嶋嶺子 撮影/武田 雲
温室効果ガスの14%は畜産業が占める
牛や鶏を育て、魚を採る。野菜や果物を収穫して、食卓に並べる。こうした「農業」は人類にとって、ずっと必要な産業であり続けている。日本にとっても、大切な基幹産業でもある。
ところが、この農業の未来に対して、世界的にはやや厳しい見方が広がっている。「環境問題」だ。
世界の温室効果ガスの総排出量のうち、実は畜産業が占める割合は14%。

ヨーロッパでは、環境を考えて家畜の数を半分に減らすように国会で議論されている国もあるほどだ。人口が増えていく中で、農業用水をはじめとした水不足も長年指摘されている。
また、日本では漁業、畜産産業の慢性的な人手不足が問題になっている。重労働のイメージもあってか、後継者がおらず新規参入の壁が高い。漁業や畜産農家の新しいビジネスモデルもなかなか見つからない。
これらの課題解決に貢献できるのが培養肉である。
培養肉で環境負荷を9割近く削減
まず環境問題について見ていこう。
The Good Food Instituteという国際NGOが出した『培養肉のライフサイクル・アセスメント』という報告書において、例えば既存の牛肉の生産に比べて、培養肉は以下のように環境負荷を減らす可能性が指摘されている。
・環境負荷→約89%削減
・土地利用→約88%削減
オックスフォード大学による環境負荷の削減可能性に関する試算も、上記の数字と同様の結果を示している。
さらに、農家のあり方に関しても大きく変化がある。既存の農家の方が利益を産み続けられるような仕組みを含めて、私たちは現在議論しているところだ。
新型コロナウイルスの流行によって、さまざまな産業が影響を受けている。畜産業も例外でなく、アメリカでは食肉加工工場でクラスターが多く発生し、操業停止に追い込まれた。
日本もパンデミックに限らず、災害が多い国である。非常時の食料対策においても培養肉は有力だ。
細胞農業は、生産工程をほぼ自動化することが可能だ。培養のチキンを作るFuture Meat社は、将来的に冷蔵庫ぐらいの大きさのバイオリアクターで2週間あたり100羽分の培養チキンが生産可能だ、と発表している。
災害などの事情で食料供給が断たれてしまったとしても、ビルに1台、冷蔵庫ほどの大きさの「バイオリアクター」と培養液のリサイクルシステムがあれば、食料を外から調達しなくてもお肉の供給は保たれるということだ。
このリサイクルシステムについても研究が進み、国内では東京女子医科大学が開発中だ。
牛や豚は、食肉になるまで育成を含めて多くの時間がかかってしまうが、細胞農業を活用すると短期間で生産することができる。
畜産農家は「量より質」で稼げる
このように書くと、細胞農業によって既存の畜産農業は脅かされてしまうのではないかと不安に感じる方もいると思う。実際は、両者はむしろ協力関係になることができるのである。
畜産農家は、これまで動物をたくさん育てることでお金を稼いできた。しかし、細胞農業に参入することで、これまで以上に「量より質」を追求できる。
最高品質の数頭を育て、その細胞を提供することで生計を立てられるようになる。
特に、これまでは肉の個体差が大きく、牛を解体するまでA5やA4といった肉の等級は分からなかった。これからは、細胞の増えやすさなどの品質を牛が生きている間に確認・管理ができるため、収入も安定させることができるかもしれない。
新型コロナでレストランが閉鎖し和牛の消費が落ちて価格が下がったことは記憶に新しいが、こういった急な需要の変化に対する供給のコントロールも細胞農業の場合、容易となる可能性がある。
一方で、大事になってくるのは、畜産農家やその上流の団体らが継続して収入を得られる仕組み作りだ。少量の細胞から多量の培養肉を生産することができるので、細胞がもたらす収益の大きさを再認識し、適切に取引が行われることが必要となる。
私たちは、この問題を「細胞農業目的の細胞の取引に関するルール整備」で解決しようとしている。
少量の細胞から多量の培養肉を生産することができるということは、すなわち細胞は複製可能なデータと同様である。畜産業界としては1回細胞を売って終わりではなく、培養肉が生産されるごとに使用料が発生するライセンス形式のビジネスモデルで事業を運営することを希望することになろう。
詳しいことはルール作りの章で詳しく説明するが、そのようなビジネスモデルを実現し、畜産業界に利益還元する仕組みに必要な業界ルールを世界に先駆けて早急に協議している最中だ。
培養肉が人のアイデンティティを作る
話は少し逸れるが、私は「食文化は人々の大切なアイデンティティだ」と思っている。
日本の人々にとってのお寿司やすき焼き、牛丼といった料理は、特定の記憶と結びつき、人々の間で大きな意味を持っているのではないだろうか。
私にとっては祖母のボルシチを食べるとイスラエルに帰省した実感が湧く。皆さんもきっとそんな一皿があるはずだ。

しかし、マグロや牛は将来的にこれまでのように楽しむことはできなくなってしまう。言語が消えると文化が消える、と言われているが、それは食材に関しても同じくらい危機につながると思う。
だからこそ、培養肉等の細胞農業食品が広まることで人々の食に関する歴史が継承され、文化を保つことに貢献できるはずだ。新しい食材であると同時に、世代を超えて食の記憶を共有する手助けにもなりうる。
また、細胞農業の技術によって、新しい食文化を形成するようになるのも素敵なことだろう。内陸の国に住む人が新鮮な刺し身を食べられるようになったり、宗教的な理由で食べられなかった種類の肉を、培養肉であれば食す人が増えたりする未来もあるだろう。
母乳の出ない・出にくい子育て世代の方々向けに細胞農業を用いて人間の母乳の生産を試みる会社もある。
細胞農業食品が、人々のアイデンティティになる未来もそう遠くないはずだ。