
肉が「パーソナライズ」される時代
構成/田嶋嶺子 撮影/武田 雲
次世代の肉と言われる「培養肉」。動物を多く育てて、肉を生産するのではなく、テクノロジーの力で細胞から収穫する。培養肉ビジネスの未来に迫る。
培養肉の活動は「自己実現」
前回話した、イスラエル軍でのボランティアの経験は私にとって、かけがえのないものだった。
今の私は日本発の「次世代の肉」のビジネスやルール作りを牽引することに私生活を捧げている。当時の体験があったからこそ、頑張れる。
もちろん、本業のM&Aの分野でも日本企業をサポートできるようになれば、これほどうれしいことはない。
私は本業の欧州系銀行とは別に、多摩大学のルール形成戦略研究所に所属している。細胞農業に関する仕事の私の拠点だ。この研究所には、企業でルールメイキングに携わってきた実務家をはじめ、政治や行政内部の仕組みに強い元政治家、日本文化をソフトパワーと捉えて活動しているアーティストなどのエキスパートが集まっている。
多様な人材を基盤に、経済安全保障や水素政策等に関するルールメイキングのプロジェクトが進行中だ。
投資銀行での仕事と培養肉の活動を両立させるのは結構ハードだ。
平日は昼夜を問わず本業の仕事があるため、土日や早朝深夜に培養肉関連の活動を進める。政治家や官庁は午前8時ごろから動き始めるので、投資銀行の始業時間の午前9時前に永田町を訪問する。
イスラエルの友人や家族と話していると、社会に対する強烈な責任感が伝わってくる。私も同じであり、したがってこの活動はある種の「自己実現」に近く、生きがいに感じる。
細胞農業のルールメイキングの意義

さて、私が従事する細胞農業に関するルール作りの活動はどのような課題解決につながるのか。細胞農業の普及によって達成できる「社会課題の解決」と「個人の幸せの実現」の2つの側面がある。
まず「社会課題の解決」の例として大事なのは次の3つだ。
1つ目は、環境に負担をかけることなく、日本の食文化の「おいしさ」を守り続けられることだ。培養肉の技術が進めば、肉の生産に必要な淡水や土地、温室効果ガスを最大9割以上抑えることが将来的には可能と試算されている。その上で、日本産の肉や魚を生産できる。
2つ目は、食生活や食文化の維持と多様化に貢献すること。例えば日本人に広く親しまれているマグロやウナギなどは、乱獲などの影響で絶滅危惧種の種類も多く、今後食べられなくなる可能性がある。
高級食材であるフォアグラも同じだ。アニマルウェルフェアなど動物愛護の視点からカリフォルニアやニューヨークなど多くの州で提供が禁止されている。
私たちの食生活や文化を見直さなければいけない時期に差し掛かっている。培養肉や細胞農業のテクノロジーを活用することで、これらの新しい変化に対応しつつ、これまでと同じように食を楽しむことができる。
「培養肉」の技術を応用すれば、「培養ウナギ」や「培養マグロ」もできるかもしれない。食が多様性は、社会の豊かさにつながる。

最後の3つ目は、漁業や畜産業の再生だ。
培養肉が既存の畜産農家や漁業関係者を「代替する」ようになるという議論もあるが、私はそう思わない。むしろ、お互いが大事なパートナーになり得る。
詳しくは第6話で解説するが、牛1頭あたりの価値を向上させ、畜産農家による細胞農業業界向けの細胞のライセンスビジネスを推進することができれば、畜産に伴う「重労働のイメージ」を払拭し、慢性的な人手不足の解決や、品質管理が行いやすくなり収入を安定させることができるだろう。
培養肉は多様な消費者ニーズに応える
次に、「個人の幸せの実現」について考えたい。
培養肉の普及によって、「食文化のパーソナライズ化」が進む可能性がある。複雑な消費者ニーズに個別に対応できる、という意味だ。
例えば、現在のアメリカ人の3人の1人が「フレキシタリアン(植物性食品を中心としながら、時には肉や魚も食べる立場)」だとも言われている。
「肉は好きなのだが、気候危機にも関心がある。そのため、環境負荷が高い肉を多く食べることに抵抗感がある」という複雑なニーズもありそうだ。
こうした消費者の心境に対して、スマートキッチン・サミット・ジャパンなど食・料理のイノベーションを推進するシグマクシス常務執行役員の田中宏隆さんは、こんなことをおっしゃった。
「『ソウルフードであるハンバーガーをいつまでも食べ続けたい』という気持ちが、米国の消費者にあるのではないか。そんな思いが、植物肉・培養肉の研究・事業化を加速する原動力の一つになっているかもしれない」

私も日本の食生活に慣れ親しんだ人間として、お寿司やすき焼きが食べられなくなるのは想像しがたい。そのような個人のモチベーションがきっと、細胞農業やフードテックを長期的に盛り上げていくのだろう。
また、コレステロール値など、健康上の問題で市販のお肉を食べられないという人にも、培養肉は向く。お肉の油の配合や、特定の栄養価を非常に高くするといったコントロールができるからだ。
カンガルー肉も培養可能
ミシュランの星を8年連続で獲得しており、食料不足を解決する世界的技術開発コンペXPRIZEのセミファイナリストである島村雅晴さんは、培養肉に対して「環境負荷やサステナビリティの側面からも興味がある」という人物だ。
島村さんは、「特に面白いと思っているのが、お肉を口に入れた時の脂の口どけの温度なども培養肉なら調整することができること。テクノロジーによって、新しい食体験が生まれるのではないか」と分析している。
オーストラリアのVow Food社は、「地球上には何億種類もの動物がいるのに、主に牛・豚・鶏の3種類の肉しか食べられていないのはもったいない」として、カンガルーなど、一般的に食べられている家禽以外の肉を培養で提供する事業を興している。
殻をむくのが大変なカニ等の甲殻類、ジビエで食べられているスズメや、新たな寿司ネタとして可能性を秘めている深海魚。
可食部が少なかったり、骨が多かったりして加工や大量生産に手間がかかるが実はおいしいとされる食料の生産も、細胞農業の活用でどんどん広がっていくはずだ。