
2022/02/01
読了目安4分

本連載の始まりは、1冊の本であった。ハロルド・ヴォーゲルの『Entertainment Industry Economics』である。
米国で最重要産業と目されるメディア・エンターテイメントの業界をフルカバーし、映画・テレビ・音楽は当然として、ゲームやミュージカル、果てはスポーツからギャンブルに至るまで、10以上ものエンタメ業界の産業構造について解き明かした名著である。
財務会計に始まり、開発やマーケティングなど産業機能までも詳細に説明をされており、これほど広く深く産業をカバーしている書を私は他に知らない。
著者ハロルドはメリルリンチの産業アナリストとしてこの本を記し、コロンビア大学などで教鞭をとりながら常にアップデートを続けており、1986年の1刷目に始まり、3~5年ごとに書き加えられ続け、25年目となる2020年には10刷目がリリースされた。
ピクサーでスティーブ・ジョブスと渡り歩いたCFOのローレンス・レビーも、業界に入るにあたり、最初に目を通したのが本書である(『PIXAR 〈ピクサー〉 世界一のアニメーション企業の今まで語られなかったお金の話』より)。
なぜ日本版のこの本がないのか、といったところから私の疑問は始まった。
そもそも私がこの本を切に必要とした時期がある。2017年、早稲田大学とシンガポールの南洋理工大学で非常勤講師として「エンターテイメントビジネス戦略」という講座をもち、90分×15コマ=約23時間を英語でエンタメ業界について講義するにあたり、とにかく困った。
英語でエンタメを全部説明しなくてはいけない! そして「英語で書かれたエンタメ全般の産業論」としての唯一無二の本書にたどり着いたのだ。
だが本書は北米を中心としたもので、当然ながらジブリや東映アニメーションは出てこず、任天堂やソニーについての記述は少なめだ。ガンダムやドラゴンボールについての言及もない。
「エンタメ社会学者」という名称を私自身が名乗り始めたのはこの2017年だった。当時は『カードファイト!! ヴァンガード』や『BanG Dream!(バンドリ)』、新日本プロレスといったエンタメコンテンツを展開するブシロードの海外担当役員として事業を行いながら、学者を兼任していた。
一体エンタメ社会学者とは何なのか。
私の定義では「社会学者」というのは、人の集団や価値観・文化形成の構造を解き明かすあらゆる仕事をする人である。ときにアニメやゲームを作ってファンが形成される過程そのものが社会学としては格好の分析材料である。
リクルートやDeNA、バンダイナムコ、ブシロードといった会社を渡り歩きながら、また事業者として利益最大化を最重要ミッションとしながら、私はどこか学者然として、その現象そのものを誰もが咀嚼できるように分析しようと試みてきた。

事業者であり学者であった自分は、10年以上エンタメビジネスをしながら、同時に趣味で同ジャンルの歴史書から解釈本まで読み続けてきた(ざっと数えるだけでも1000冊ほどだ)。
21世紀に入ってから「クールジャパン」という掛け声のもと、日本のコンテンツで海外市場をとっていこうという動きが行政も巻き込んで広がった過程を見てきた。
それはソ連崩壊後で音楽グループのタトゥーを世界展開していたロシアや、通貨暴落後でドラマを海外展開していた韓国がそうであったように、「くじかれたプライドを、ソフトな商品の文化浸透力によって回復させる試み」であった。
自分たちの文化が自分たちと異なる社会・経済・人々に受容されていることは、アイデンティティの回復にもなる。
日本も例外ではない。世界2位の経済大国でありながら、「失われた20年(今や30年?)」の中で様々な経済指標で追い抜かれ続けてきた日本にとって、エンタメは経済規模こそ限定的だが自分たちの海外におけるプレゼンスを取り戻す一つの道具になるものではなかっただろうか。
2014年にバンダイナムコスタジオのカナダスタジオヘッドとして初めての海外赴任をしたときに驚いたのは、『パックマン』の影響力の大きさであった。
バンクーバーの50余りの開発会社のほぼすべて足を運んで訪ねたが、誰一人としてパックマンに影響を受けていないトップはいなかった。
当時の30~50代の経営者たちは、すべからくパックマンに熱狂した30年前を昨日のことのように思い出して熱望し、バンダイナムコが「再び」あのときのように輝く姿を期待してくれた。
「再び」……?
そう、2000年代にすでに日本のゲームソフトは北米でずいぶんと存在感を失い、EA(エレクトロニックアーツ)やActivision Blizzardのような新進気鋭の地場ゲーム会社のソフトが台頭し、1990年代の市場の7~8割は日本のソフト、という時代から一転して、市場の2~3割くらいといったプレゼンスに落ちている。
日本が世界のゲーム産業を作ったと言っても過言ではないのに、なぜ存在感が失われたのだろうか?

(カバーデザイン:武田 雲)